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鷦鷯巣於深林不過一枝
2004年12月24日 kodo | 個別ページ | コメント(4) | トラックバック(0)
鷦鷯は深林に巣くふも一枝に過ぎず
偃鼠は河に飲むも腹を満たすに過ぎず
(荘子逍遥遊より)
みそさざいは、林の奥深くに巣をつくるけれども、
必要とするのは、たった一本の枝に過ぎない。
かわうそは黄河の水を飲むけれども、
お腹がたくさんになるだけの水しか飲むことが出来ない。
あれもこれもと欲張っても、じぶんに必要なのは「一枝」だけである、
そのことを決してわすれずにいたいものです。
「一枝堂」は明の徐謂が、東城郡学のちかくの借家でひらいた塾の名です。
彼は入り婿した先の愛する妻が死んだあと、何一つ持ち出さずに家をでて、
塾をひらいて生活の足しとしつつ科挙の勉強をつづけたのです。
吉田兼好はつれづれ草のなかで、
されば、一生の中、むねとあらまほしからん事のうちに、いづれか勝ると、よく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。(中略)いづかたをも捨てじと心に取り持ちては、一事をも成るべからず。また、
一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るゝをも傷むべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一(いつ)の大事成るべからず。ともいっています。
「人の嘲りをも恥づべからず」です。
恥ずかしいとか思っていたらなにもできません。
人に恥ずかしいではなくて、意を決してできない自分が恥ずかしい。
一歩を踏み出さなくてははじまらない。
道が外への接触を求める人間の志向によって開かれるものとすれば、それは他から与えられるものではない。その閉ざされた世界から脱出するために、みずから開くものである。道をすでに在るものと考えるのは、のちの時代の人の感覚にすぎない。人はその保護霊によって守られる一定の生活圏をもつ。その生活圏を外に開くことは、ときには死の危機を招くことをも意味する。道は識られざる霊的な外界、自然をも含むその世界への、人間の挑戦によって開かれるのである。白川静「遊字論」より
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