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北魏 寧将軍元君墓誌銘(元倪墓誌)
2005年1月26日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
寧将軍元君墓誌銘は、書道全集 第二巻(平凡社)には、
「元倪墓誌(げんげいぼし)」として掲載されています。
それによると、22字×19行に正楷で刻されているそうです。
墓誌銘はもと碑形が多かったものが、北魏では定形を得たようです。

明・王鐸 憶過中條語
2005年1月26日 kodo | 個別ページ | コメント(5) | トラックバック(0)
王鐸の流れるような筆致と呼吸は見事です。
前の字からの意をしっかり継いで受けているので、
そのながれはまるで滝のようです。
東京国立博物館ではじめて王鐸をみたときは、ショックでした。
しばらく立ちすくんでしまいました。
これはたまらないと、当時は毎朝ジョギングをしたりしました。
とても人間を感じる書です。
王鐸は、楷書は鍾繇・顔真卿、行草は王羲之・王献之を学んでいます。
米芾のほかは五代以降の書を学ばなかったといわれています。
たしかに米芾の香りもありますが、消化しきっていますね。
王鐸は、
「書の習いはじめは帖どおりに書きがたく、おわりは帖より脱しがたし」
といっています。
人の求めには、淳化閣帖の一段を背臨するのを常としたそうです。
落款に「己卯洪洞王鐸」とあります。
崇禎十二年(1639)、王鐸48歳の作。
「洪洞」は山西省の県名。

東晋・王羲之 奉橘帖(平安帖)
2005年1月26日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
何如帖、奉橘帖とならぶ、奉橘三帖のうちのひとつ。
現在は台北の故宮博物院にあるそうです。
写真をみるとわかりますが、
現在平安帖は、27字のうち6字を欠損していますが、
「宝晋斎帖」などの刻帖をみることによって
おぎなうことができます。

余裕
2005年1月24日 kodo | 個別ページ | コメント(5) | トラックバック(0)
書を書き終えた時に疲れていたらその書は良くないというxiyueさんの先生のことば、なるほどとおもいます。 私もそうおもいます。
私の場合は、作品を書こうというと、つい殺気立ち気負ってしまうので、
疲れたあと、一服して書いた書のほうが、おちついていてよい場合があります。
欲がでるとだめですね。
背伸びをすると、作品が余裕がないものになります。
いま持っている力で、あり余るくらいのあるものを、
こころをこめて書きた作品が、
大家のような生きた作品となるのでしょう。
大きな紙に行書(?)を書いていたそうだけど、中国人の先生から見たら前衛書にしか見えなかったとか。
大いにありうるようにおもいます。
笑うに笑えなかったりします。
どうしてそうなってしまったのでしょう。
日本人的な現象なのかもしれません。
なにをまなんでいるのかわからないような作品が多いのです。
古典のまなびかたからして、「形」を重視していないように感じます。
意は形によってあらわれるものです。
武道にも型はあります。
やはり「道」のひとつであって、
書法をまなんでいるという意識が低いのでしょうか。
そういえば、正座して書くことが最近少なくなりました。
教室でも椅子にすわっています。
食事のときも椅子なのです。
やはり落ち着かなくて、
椅子の上にあぐらをかいたりしてしまいます。
息子も椅子に正座してしまって、妻におこられたりしています(^^;
座敷がやっぱりおちつきますね。
p.s.
ところで、xiyueさんのブログ「遊於藝」(http://xiyue.exblog.jp)ですが、
エキサイトにログインしないとコメントがみれないし、コメントできないようです。
ぜひコメントしたい!とおもうことがなんどかありました。
設定を変えていただけるとうれしくおもいます。m(_ _)m
昭仁寺碑
2005年1月24日 kodo | 個別ページ | コメント(3) | トラックバック(0)
tianpianさんが、菘翁臨書帖二種を紹介されていらっしゃいます。
ありがとうございます。
そこに、菘翁の臨書した昭仁寺碑があります。
書道博物館に昭仁寺碑の拓本があるようなので、
そのうち観にいってみようとおもいます。
書道博物館のWebページに、こんな紹介がありました。
昭仁寺碑(旧拓) 唐・貞観4年(630)
昭仁寺は、唐太宗の命によって、唐王朝建国のための戦いで戦死した兵士を供養するために中国各地に建てられた寺の一つで、この碑には昭仁寺建立の経緯が刻されている。
三千字余りの碑文は朱子奢の作だが、書者は不明。古来多くの説が出ているが、中村不折は虞世南・孔子廟堂碑に似た書風であることから、虞世南の書とする説を支持している。
唐の太宗は、建国の際に戦禍をうけた地にそれぞれ一寺を建立しました。
そして義勇の戦没者の供養のために、
虞世南や顔師古(顔真卿の祖先)に碑銘をつくらせたそうなのです。
昭仁寺碑や等慈寺碑はその一つです。
昭仁寺碑はふるくから虞世南の書とする説が多いのですが、
楊守敬は「その格度気韻は世南に遠く及ばない」と評しているそうですし、
王澍も、虞世南の書ではなく、虞世南をよく学んだ人の手になるものであろうとしているようです。
以下は『書道全集 7』(二玄社)
筆者は宋以来、一般に虞世南と信ぜられ、あるいは欧陽通、王知敬に比定する説も行われた。しかし後の両者は年代的にややおくれ、虞世南は貞観四年にはすでに七十三歳であったから、果してこの大作に耐ええたかどうか疑問である。もちろん波法においてはいくらか似通ったところもあるが、風格や気韻においてはとうてい虞世南の敵ではなく、また用筆のかたすぎる点においてもその変化百出たるには及ばないと評される。(日比野丈夫)
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剣(僉・刀・兵)
2005年1月23日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
金曜日に小学一年生の息子の学校へ行ってきました。
学校の公開授業の日で、
むかしのあそび、ということで、
ゲストとして、けん玉をやってきました。
「けん玉」というのは、
広辞苑をひくと、「剣玉」もしくは「拳玉」と書くようです。
先のとがった部分を剣というのでしょうか。
そういえば、形も剣にもなんとなく似ていますよね。
横の二つのお皿は、つばの部分に見えなくもありませんし(^^;
拳と書くのは、玉が拳のようだからでしょうか。
剣というのはどういうなりたちをしているのでしょう。
剣は、旧字では「劍」と書き、「僉(セン)」と「刂(トウ)」とからできています。
「僉(セン)」には、
令、命の上の部分とおなじ部分(人と一とを書いた部分)があります。
これは、神事にしたがうものが用いる礼冠の形です。
これに、ふたりの兄がえがかれています。
ふたりならんで祝祷するところから、「みんな」の意味が生じます。
「僉(みな)曰く」という用法があるらしく、
ほんらいは「神意を承る者の言がすべて一致する」という意味なのだそうです。
ふたりならんで祝祷するのが、僉(セン)です。
ふたりならんで舞楽するのが、巽(ソン)です。
僉は(セン)と音しますが、字統には、
「金文に剣銘の剣を僉に作っており、古く剣の声であったのであろう」
とありますので、
ふるくは僉は(ケン)という音だったのかもしれません。
右側の刂は、刀(トウ)です。
そのまま、刀のかたちです。
刀は片刃で、剣は両刃だったとおもいますが、
剣という字にも刀が入っています。
そういえば日本の剣道は、
刀(かたな)をつかうのに、「刀道」ではなくて「剣道」ですね。
剣は、金文では「刂(トウ)」をつかわずに「鐱(ケン)」(金+僉)となっているようです。
ところで、
古代の兵士は、刀や剣ではなく、斧を両手にもって戦ったのでしょうか。
「兵」という漢字は、「斤」を両手でさしあげているかたちで、
武器をとって戦うものの意をあらわしています。
「斤」は、斧(おの)のかたちなのです。
兵は、刀や剣をもって戦うのではないのですね。
帯剣できるものたちは限られたのでしょう。
「神意を承る者」である長兄たちだけが、
帯剣をゆるされたのかもしれませんね。
字統に、
「古く男子は帯剣、
六朝の士人も、聖徳太子像のような長剣を帯しており、
着剣のまま殿上に入ることを許される剣履上殿は、殊寵とされた。」
とあります。
参考文献:
字統、常用字解
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兄
2005年1月23日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
兄というのは、
上の口の部分を、「口(くち)」ととるか、「頭(あたま)」ととる場合が多いようです。
『漢字源 改訂新版』(藤堂明保ほか編、小学館、2002年)
象形。兄は頭の大きい子を描いたもので、大きいの意を含む。
『漢字字源辞典』(山田勝美・進藤英幸著、角川書店、平成7)
「ことば」の意味を表す「口(くち)」と、音の表す「儿(尫(おう))」とからなる形声字。「光」参照。ということなので、「光」を参照してみると、
「尫」は、佝僂(くる)(せむし)の形象であるが、ここでは「ワウ」の音を表す音符である。とあります。
『初等漢字の教へ方』(後藤朝太郎著、関書院、昭和11)
兄の字は、口と人の姿の両要素からなつてゐる。口は果して目口鼻の口か、それとも首全體を四角形で表はした者であるか、その邊は明かでない。しかし見の字が目の所を誇張して、首全體にかへ、そして見るはたらきを極度に理解させようとしてゐる所からみると、兄の方もその口角を十分開いて大いに口幅ひろく叫び命じてゐる所の示されてゐるものかも知れない。
白川説をみてみましょう。
『常用字解』(白川静著、平凡社、2003)です。
会意。口と人(儿)とを組み合わせた形。口はサイで、神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の形。兄はこの口(サイ)を頭上に載せている人を横から見た形で、神を祭る人をいう。兄弟のうちで家の祭りごとを担当したのが長男であったので、兄は「あに」の意味となる。 長兄が家の祭祀(祭り)を嗣(つ)ぎ、季女(末娘)が嫁がずに家に残って家の祭祀を守るというような習俗があった。 古い字形には、袖に舞うときの飾りをつけた字や跪(ひざまず)く形の字があって、兄が祭りに従事する人であったことが知られる。 兄に祭卓(神を祭るときに使う机)の形である示(じ)を加えると祝となり、はふり(神に仕える人)をいう。
『字通』(白川静著)には、
口は(さい)、祝詞を収める器。そのことを掌る人を兄という。字の構造は、見や望の初形が目に従い、聞の初形が耳に従い、光の初形が火に従い、それぞれの下に人を加えるのと同じ造字法である。長兄は家の神事を掌るもの、すなわち祝となるべきものであった。卜文・金文の字形に、袖に飾りをつけて舞い祈る意を示すもの、また跪く形のものがあって、兄は神事に従うものであったことが知られる。とあります。
「兄」という単純なかたちの字なのにもかかわらず、
ずいぶんと字説がことなりますね。
どれが正しいかはわかりませんし、解釈なのでひとそれぞれでしょうが、
現在は白川説が有力になりつつあるようです。
口がサイ、すなわち神に祈る祝詞を収める器であるというのが、白川文字学の基礎にあります。これは世紀の大発見でしょう。兄はこれを戴いて神を祭る人をあらわすのです。
「兄の字形の袖の部分に、舞うときの飾りをつけた字があり」(字統)などは、甲骨文を仔細にみてはじめてわかることであり、とても説得力があります。
白川静漢字暦二〇〇五
2005年1月21日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)
昨日、妻に「ロッキングオンジャパン」を買ってくるようにたのまれたので、
しごと帰りに書店にいきました。
で、妻に感謝。
白川静漢字暦二〇〇五 2005カレンダー
白川静
出版社 平凡社
発売日 200410上旬
価格 ¥ 1,260(¥ 1,200)
ISBN 4582645135
を見つけました。
さっそく購入してみました。
カレンダーの数字の部分は、漢数字になっています。
カレンダーの上部には、毎月テーマをきめて、8~10ほどの漢字の説明があります。
たとえば一月は「口(サイ)」がテーマになっていて、
それに関連する、「史、使、事、右、左、尋、兄、祝」の字の簡単な説明がついています。
大きさは、A3です。ひらくとA2になります。
下手なイラストなどを載せずに、甲骨文が載っているのがよいですし、
関連する字が1ページひと月にまとまっているのもおもしろいです。
どちらかというと、
実用というよりは、白川ファン向けのカレンダーかな、とおもいます。
雁塔聖教序の法帖を買いました。
2005年1月19日 kodo | 個別ページ | コメント(5) | トラックバック(0)
先日、教室にいったときに書いている方がいらっしゃいました。
どこにでもあったはずなのに、
いざみようとおもうと、じつは自分では持っていないのに気づきます。
買ったのは、二玄社の「中国法書選 34 雁塔聖教序」です。
雁塔聖教序は、褚遂良の楷書のなかでは、最晩年のころの作品です。
なんともいえない艶やかで気宇の大きな書です。
真蹟と法帖
2005年1月18日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
「漢晋人の真蹟の価値とその学び方(埜本白雲)」(by tianpianさん)を読みました。
筆意を知るには真蹟に若くはないのですが、
風韻・古意を知るには、法帖のほうがよいのかもしれません。
いえ、これは印刷物で学ぶ場合の話です。
学書には便利な世の中なのですが、
真を得たければ、写真を本物と勘違いしてはいけません。
本物の「真蹟」ならば、事情はちがいます。
真蹟は生きているからです。
本物を常に身近に見ることができるひとは、
本物の風格を自然に身につけるかもしれません。
智永の千字文の真蹟を東京国立博物館で目にしたことがありました。
それまでの印象はがらっと変わりました。
写真ではだめだ。
こころからそうおもいました。
写真では用筆はわかりますが、
もっとも大事なものが不足しているのです。
真蹟にしろ法帖にしろ、印刷物ではない本物が欲しい。
書の厚み・重みが違うのです。
これは決定的です。
これが自分の書の厚み・重みになってしまうようにおもいます。
本物の法帖で学びたい。
現代の書が妙に薄っぺらなのも、こんなところに原因があるのかもしれません。
鍾繇や羲之や献之の真蹟をみることができないのが残念です。
それを憧憬するしかない。
「私の家には書道界に誇るべき書物が一部ある。それは敦煌発掘の漢晋時代真蹟の字書である。」
とありますが、その字書というのはどのようなものでしょう。
それにしても、古い時代のものを、たとえ字書に頼りながらであっても
現代の私たちが読むことができるというのが驚異です。
字書ほど安いものはない、と本当におもいます。
それが編纂されるまでの道のりをおもいます。
徳島県立文学書道館
2005年1月16日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
徳島県立文学書道館というのがあるそうです。
文学と書道。
文学者の特別展示などだと、たしかに書軸など飾ってあったりしますから、
そういったものを中心に集めてあるのかとおもいましたが、
どうやらいわゆる「書家」を含むようです。
文人というのとはちょっとちがうのかもしれません。
画家その他をもふくんでしまうと、美術館?なのでしょうか。
幕末の三筆といわれる貫名菘翁 (ぬきな すうおう)や
明治の中林梧竹 (なかばやし ごちく)は、徳島出身だったのですね。
小坂奇石は、私が学生のころに亡くなられたのをおぼえています。
当時から私的には好きな作家でした。
施設案内には、
とあります。文学は心を言葉や文字にして伝え,書道は言葉や文字を形にして心を浮かびあげます。ここは,言葉が溢れる「言の葉(ことのは)ミュージアム」。徳島ゆかりの文学と書が織りなす豊かな知の世界が凝縮されています。
館では,徳島ゆかりの文学・書道に関する作品や資料の収集・保存や調査研究,展示紹介だけでなく,文学・書道にふれ,学び,親しむ講座や実習などの開催,生涯学習や文化活動の場を提供するなど,徳島の多彩な文化を創造・発信する拠点として事業を展開していきます。
文学と書道をあわせたは、全国にはじめての施設だそうです。
作品2
2005年1月14日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)
第27回 國際書画展 出品作品。
第27回 國際書画展
2005年1月14日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)

玉木浩堂の作品(641kb)は第一会場(東京都美術館)にあります。
会場がわかれてしまっているのがつらいところです。
第二会場は、浅草の二天門の前にあります。7階です。
東京都美術館(第一会場)には、
顧問、参事、三役、常任理事、監事、参与出品
ならびに、理事・評議員・会員出品のうち、苗字がタ行からワ行まで。
都立産業貿易センター台東館(第二会場)には、
理事・評議員・会員出品のうち、苗字がア行からサ行まで。
という展示になっています。
第一会場には、師小野田雪堂、中村恒堂(knob)があります。
會田芝鴻さんが、評議員奨励賞を受賞しました。
おめでとう。
(作品は第二会場)
昨日、第二会場の搬入に行ってきました。
書と画とあります。画はインパクトのあるものが多いので、
自然で、しかも起伏があるように、いかに配置するかは悩みどころですが、
ああだこうだとかんがえるのはとても楽しいものです。
入場料は、500円です。
東京展 第1会場 東京都美術館 TEL03-3823-6921
平成17年1月11日(火)〜1月16日(日)
午前9:00〜午後5:00(入場は4:30まで)
最終日は午後2:00まで(入場は1:30まで)
第2会場 都立産業貿易センター浜台東館 TEL03-3844-6151
平成17年1月14日(金)〜1月17日(月)
午前10:00〜午後5:00
最終日は午後2:00まで
以後、関西展・中部展と巡回します。
筆
2005年1月11日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
澄翔さんの箱根旅行を読んで、竹の筆というのを知りました。おもしろいですね。
そういえば筆という字は竹冠です。
ただ、もともとは竹冠がない「聿」だけで、筆の意味をなしていたようです。
元来、竹は北方支那になく、南方揚子江方面或いは南方熱帯地方にかけて生ずるものである。それ故孔子の時代、或いはそれ以前に北方の各地で竹簡、その他、竹の需要があつたとすればいづれも南方からわざわざ移入されたものだと思はれる。西域、中央亜細亜方面で沙漠の中から松柏科の木材を用ひた木札(木簡)が、数多発掘され、これに墨書された文字が見出されてゐる。これは前漢の王莽の神雀年代のもので、己に二千有余年を経てゐる貴重な出土品なのである。これ等はいづれもきぢかから見ると松柏科の板であつて、麻の紐、または羊の皮の紐で綴づられてゐる。恐らく西北地方にても、古くは竹の材料が得られなかったため、木札が用ひられてゐたのであらう。(『初等漢字の教へ方』(後藤朝太郎著)ということです。
つまり、管の部分は、竹でつくることが多かったのでしょうが、
かならずしも竹とはかぎらなかったかもしれないということなのです。
聿は、筆を手にもつかたちです。
又(ゆう)は手のかたちなのですが、
聿は、筆のかたちに又(ゆう)を組み合わせたかたちです。
ちなみに、又(ゆう)は右手です。
甲骨文や篆文をみてみるとわかります。
篆書の書き順をみると、右と左の漢字の書き順が納得できます。
指から書き、腕を書くのです。
又(ゆう)は、右のもとの字です。ナ(さ)は左のもとの字です。
右手を二つならべたのが、友です。
手と手をとりあって、たすけあうのが友なのでした。
さて、竹筆というのは、竹を細かく裂いて筆のようにしたもののようです。
江戸時代の禅宗の僧侶が竹筆を愛用していたそうです。
やわた発明展示室によると、
中国の墨絵・額字等にも数多く見られるそうです。
これにはびっくりしました。
ホウライチク竹筆の画像
TAZAKI'S ART WORKS
などに写真がありました。
葦ペンや竹ペンはいまでも画材店で売っていますよね。
いまでは画家やまんが家の道具になっています。
使い込むと、やわらかいあたたかい線がでそうな気がします。
しかし竹筆があるということ自体知りませんでしたし、
まだ作っているということも驚きでした。
ふつう筆は、巻筆(まきふで)と水筆(すいひつ)に分けられます。
古くは巻筆しかありませんでした。
水筆は宋代からもちいられたそうで、それ以前は巻筆だったそうです。
日本でも平安時代の筆も巻筆で、和様の書は近世の末まで巻筆で書いたそうです。
巻筆は、鋒の芯を紙で巻いたものだそうです。
いまの筆はほとんどすべて水筆です。
紙で巻いたりしていません。
水筆には、捌筆(さばきふで)と固め筆とがあります。
水筆は鋒に墨をたくさん含みますので、
墨をよく吸収する紙に書く場合は水筆が適しています。
巻筆も、いちど使ってみたいものです。
雁皮紙などに書くのでしょうか。現代の紙質は向かないのかもしれません。
そういえば、画仙紙に書くようになってから「書」がだめになった、といっていたひとがいました。
筆を発明したのは、秦の蒙恬(もうてん)将軍だという伝説がありますが、
世界史の教科書だと、筆の改良をしたひととして紹介されています。
蒙恬将軍は、北方から秦を脅かしていた匈奴にたいして討伐に派遣された将軍です。
北方民族は脅威だったのですね。
始皇帝は万里の長城をつくりなおし、つまり修築します。
諸国によってつくられていた長城をむすんで万里の長城にしました。
始皇帝は修築したのであって、万里の長城をつくったのではありません。
しかも現在よりもずっと北にありました。
明の時代に作られた万里の長城は「月からみえる唯一の建造物」です。
蒙恬将軍は、それまでの筆になにかしらの改良をしたのでしょう。
殷・周の時代からすでに筆はあった、というのが定説になっています。
殷墟からは墨書された陶器が発見されていますし、
じっさい、春秋時代の筆などは、ちびた筆ですが、発見されているのです。
期
2005年1月11日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(1)
「一期一会」というのは、仏典のことばだとばかり思っていましたが、
どうやら茶会のことばらしいですね。
一期は仏教用語のようですが。
一期というのを広辞苑(初版)でひいてみましょう。
いち・ご【一期】一生。生まれてから死ぬまで。閑吟集「-は夢よ、ただ狂へ」―・しょう【一期生】いちご。いっしょう。―・まつだい【一期末代】この世は一生涯、末代は永劫まで。一期一会が載っていません。
―・やまい【一期病】一生なおらぬ病気。死病。
―と思う 一生離れまいと思う。死生を共にしようと思う。
―の男 一生離れまいと思う男。
―の灌頂 人の死ぬとき成仏のしるしとして行う灌頂。
―の四相 生・老・病・死の四つの相。
―の始 生まれて始めて。
―の不覚 一生涯の大失敗。
―の浮沈 一生の大事。一生の浮き沈みのきまる瀬戸際。謡、安宅「すはや我君怪しむるは―爰なりと」
なので第三版をみてみます(最新のは持っていないのです)
―・いちえ【一期一会】(茶会の心得から)生涯にただ一度まみえること。一生に一度限りであること。「-の縁」とありました。
期という字の由来ですが、
「字通」(白川静著)によると、
声符は其(き)。其(箕)は方形に近く、一定の位置や間隔、区分を示すことがある。とあります。
「其」というのは、方形のちりとりの形なんだそうです。
だから「一定の大きさのもの」、という意味がでてきます。
でもなんで「ちりとり」なんでしょうね。
ほかに一定の大きさをしたものはみあたらなかったのでしょうか。
漢字源(学研)によると、
「其」について、
象形。其の甲骨文字は、穀物を載せる四角い箕(キ)(み)の形を描いたもの。金文は、その下に台の形を加えた。其は、のちの箕の原字だが、その音を借りてやや遠い所の物をさす指示詞に当てた。としています。
「ちりとり」でもよいのですが、なぜか「穀物を載せる四角い箕」、
こちらのほうがついうなずいてしまったりします(^^;
ところで、「其」は代名詞や副詞に用いるようになってしまいます。
そこで、竹かんむりをのせて、「箕」という字が作られました。
現在では「箕(き)」が「ちりとり」の意となって、
「其」は、いまでは本来の意味とはちがう使われかたをしているわけです。
この「其(き)」に、
月をつけます。
古くは月ではなく日をつけた形のものもあるようです。
時間の一定の長さを「期」といいます。
月や日の運行による時間や月日の一定の期間を示しています。
時間をあらわすことばに、「刹那」というのがあります。
これは完全に仏教用語です。
サンスクリット語のクシャナをそのまま音写したものだからです。
「風の谷のナウシカ」に、クシャナ殿下がでてきましたね。
クシャナは、インド仏教の数える最短の時間単位であって、
現在ならば、75分の1秒に相当するそうです。
ずいぶん短すぎやしませんか。
生じたものはかならず滅する、
そして、生じ、住し、異し、滅する、その間の時間が、1クシャナ(一刹那)なのだそうです。
あるのは刹那のみ、というのが仏教のかんがえかたです。
「期」は、人生にたとえられますが、
「刹那」も「期」もともに、
生じてから滅するまでの時間をあらわすのでした。
張瑞図(ちょうずいと)
2005年1月10日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
張瑞図は、明末の四大家として名高かったのです。
悪人にされてしまうまでは。
張瑞図は、エリートです。
そういえば、明末の書をものするひとたちはみなエリートですね。
科挙に38歳で進士、皇帝がおこなう殿試では第三席で及第しています。
その後は順調に官吏の道をあゆみます。
57歳のときに礼部尚書という役職で内閣に入閣します。
「内閣は皇帝の頭にあたる」(by 桃花さん)といいます。
ようやっと行政の中枢にはいったわけです。
このころ書いたのが、あのすばらしい杜甫飲中八仙歌巻です。
そのころは宦官の魏忠賢が権威をふるっていました。
魏忠賢といえば、中国至上いちばんの悪人ですよね。
明ができたときには、宦官は廃止抑制されたのですが、
第3代の永楽帝のときに復活していたのです。
宦官が政治に口をだすようになると世が乱れます。
この魏忠賢に可愛がられたのが張瑞図の運の尽きでしょう。
張瑞図はひとがよいのでしょうか、つい色々なものをたのまれたまま書いてしまいます。
董其昌などは、
魏忠賢が政治をもっぱらにしているとみるや、早々と辞職しています。
それでもあとでちゃんと戻ってくるんだから董其昌はたいしたものです。
さて、翌年に毅宗(きそう)皇帝が即位すると、魏忠賢は失脚します。とうぜんですが、死罪です。
やはり張瑞図も弾劾されました。
毅宗は張瑞図を庇護して昇任させましたが、張瑞図は辞職を申し出ます。
故郷、福建に帰りますが、
魏忠賢の生詞を書いたことなどなどがバレてしまって、
けっきょくは官職を剥奪されて、平民におろされてしまうのです。
張瑞図は明にしか仕えませんでしたが、やっと中枢でちからをふるえるというときに、
たった一年で汚名を頂戴し、しまいには平民にされてしまうのです。
清には仕えていません。平民ですから、ずっと故郷で自適に暮らします。
明は漢民族による中華帝国ですが、清はツングース系ですからね。
倪元璐(げいげんろ)は明の最後の毅宗に殉死しますし、
黄道周は清軍に捕らえられても降伏しなかったので殺されます。
黄道周と倪元璐は同年の進士です。同期生なのです。
傅山も清朝にはつかえないで節をまっとうします。
王鐸は明清、二朝に仕えてしまうから、いろいろいわれてしまうのですね。
節操がないということで、王鐸はやはり中国では好かれませんでした。
それにしても、世が乱れると、思想にしろ、文芸にしろ、じつに活発になります。
明末といえば、董其昌。その20歳くらい年下が張瑞図です。
張瑞図は、53歳のころに董其昌と会ったことがあるようで、
そのときに、董其昌は張瑞図の小楷を誉めたそうです。
董其昌としては、張瑞図の行草を誉めるわけには行かないのでしょう。
董其昌もエリートです。35歳で二席で進士に受かっています。
科挙に受かるには小楷が書けないといけないわけです。公用文はみな楷書です。
張瑞図からまた20年くらいあとに
黄道周や王鐸、倪元璐(げいげんろ)がうまれています。
古典を背後に感じる王鐸などとちがって、張瑞図は、まったく古典を感じません。
こうなると独自の書法といってもよいでしょう。
科挙に受かるのですから古典をやらぬはずはないのですが、
なにを勉強したのかがわからない。
張瑞図の書法はとても現代的です。
重心はしっかり据えられていて、左右に重心がうねることはありません。
王鐸などは、前の重心を受けながら、じつにみごとに左右と流れていきますが、
張瑞図は左右に重心が振れることはありません。
筆遣いだけに惑わされてはなりません。
小楷をみても、行草をみても、行間をしっかりととり、一本のまっすぐな木をみせてくれます。
王鐸や傅山などとは受け応えという意味では異質なものです。
張瑞図は、故郷に帰ったのちは、禅宗にこころを寄せ、酒と陶淵明を愛し、自適な生活を送ったようです。
平民だからといって、落ちぶれたわけではありません。
汚点を残したために、その作品は、中国では軽視されつづけました。
張瑞図が水星のため、火厄のおまもりとして飾るひとはあったそうです。
ひどい扱いですね。
それでも張瑞図は福建だったため、日本にはずいぶんと入ってきて愛されたようです。
参考:
書道全集 21巻(二玄社)
中国書道史 下巻(宇野雪村著,木耳社)
中国法書ガイド52 張瑞図集(二玄社)
桃花さんの「魏忠賢」,「明は、何故滅亡したのか?」
歴史研究所
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「明・王鐸 憶過中條語」の臨書 Part 3
2005年1月 8日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
「明・王鐸 憶過中條語」を半紙に臨書しました。
「院憶登高遠望」

「明・王鐸 憶過中條語」の臨書 Part 2
2005年1月 8日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
「明・王鐸 憶過中條語」を半紙に臨書しました。
「中條至河東書」

「明・王鐸 憶過中條語」の臨書 Part 1
2005年1月 8日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
「明・王鐸 憶過中條語」を半紙に臨書しました。
「予年十八歳過」

席書大会
2005年1月 4日 kodo | 個別ページ | コメント(4) | トラックバック(0)
かおりちゃんねるというところで、
席書大会という記事をよみました。
席書大会というのは、はじめて聞きました。
書道の社中での企画でしょうか。
市の企画だったら面白いですね。
それにしても、お正月に、体育館で一斉にやる、
という緊張感がたのしそうです。
自分で選ぶ、というのもよいですね~。
司馬景和妻墓誌銘(しばけいかさいぼしめい)
2005年1月 4日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)
司馬景和妻孟氏墓誌銘ともいわれます。
北魏の延昌3年(514年)の刻。
司馬昞(景和)の妻の墓誌銘という意味です。
景和の妻は、孟氏といい、字(あざな)は敬訓といいました。
清の乾隆20年(1755年)に、河南孟県で出土しました。
同時に出土した、
夫の司馬昞[シバヘイ](景和[ケイカ])
夫の父の司馬紹[シバショウ](元興[ゲンコウ])
夫の族人の司馬昇[シバショウ](進宗[シンソウ])
の3墓誌とともに出土したため、
あわせて「四司馬墓誌[シシバボシ]」とよばれています。
私はずっと、
「シバケイ、ワサイボシメイ」
と読んでいましたが、
区切るところと、訓みがまちがっていました。
意味からいうと、
「シバ・ケイカ・サイ、ボシメイ」
と読むのが正しいようです。
これは北魏の墓誌銘ではありますが、
なぜか東晋の書法を考える一資料といわれています。
同時に出土した、夫の「司馬景和墓誌」は
この「司馬景和妻墓誌」と同筆とみられていますが、
この「司馬景和墓誌」について、
馮敏昌は、
元常(鐘繇)の幽深を得、二王の瀟灑(しょうしゃ)あり
と評しているそうです。
東晋の王族には北魏に亡命した人がいました。
その子孫とその妻の墓誌が、四司馬墓誌だということです。
なので、北魏の書=北方異民族の書、
というイメージとはややことなるということなのでしょう。
それにしても、「元常の幽深を得、二王の瀟灑あり」とは。
この墓誌銘を書いていても
私にはまだ、鐘繇や二王とはまだまだ重なってはきません。
それでもときどきはひっぱりだして書いています。
みているだけでもたのしいものです。
西川寧氏もこんなことを書いています。
六朝の墓誌は小品藝術として実に愛すべき存在である。最も有名なものだけをとっても、容易に二十幾つを挙げることが出来ようが、その何れもが、夫々特異な面貌を持っていて、応接する毎に色々の物語をささやき出す。中にも司馬景和妻孟敬訓墓誌銘は私の最も愛するものの一である。(西川寧著作集1)
ちなみに、隋代になると、
美人董氏墓誌銘(597年)や、蘇孝慈墓誌銘(603年)などの名品がでます。
墓誌銘というと、こちらを想像される方も多いのではないでしょうか。
北魏の墓誌銘とはずいぶんと雰囲気がことなり、とても端整な書です。
なのでこれらの墓誌銘は、
次代唐代の欧陽詢や虞世南の先駆けをなすといわれています。
私は欧虞よりは、これらの墓誌銘のほうがずっと好きです。
荷物は少ない方が高く飛べます。
2005年1月 3日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
12色あれば 全ての色は表現できます。 概製の余計な色は 可能性を狭めてしまうだけです。 荷物は少ない方が 高く飛べます。しょうこさんのCocco名(迷)言集というページにある、 「12色のクレヨン」です。 Coccoは聴かないのですが、ほんと、そのとおりですよね。 私にとって、とてもだいじなことばになりました。 このしょうこさんのページは、 現在は閉鎖されています。とっても残念です。 でも、そのページの作者のしょうこさんは、最後に日記に、
とりあえず、何かが動き出してるような気がします。 それに置いていかれないように 今度こそ置いてきぼりを食らわないようにしたいと想います。,,,と書いていました。 がんばれ、しょうこさん。こころから応援しています。
この名(迷)言集に、「絵」ということばがありました。
「人生に下書き無し」なので 私は絵を描く時も下書きをしません。 一度描いた下書きを同じようになぞって 描いている時間はないのです。 描くべきものが明確に見えているので なるべく早くそれを形にするように努めます。 私は全てにおいてやり直しがきかないものを好むので 実際よくしくじります。 でも幸せなことにその失敗から新しい形が生まれて 絵はよりパワーアップします。 小学校の先生が言っていました。 「絵に間違いは無い。」 描けないことはあっても間違いはありません。 中学校の先生はこう言いました。 「覚えたいことはペンで書きなさい。」 私は自分の発言と想いと行為に責任を果たす為に 手紙を書く時はいつもやり直しのきかないペンを用います。 間違いは間違いとして、ちゃんと紙の上に残るぐらいが きっと正しいのです。私は書をやりますが、 展覧会にはまずほとんど行きません。 一期一会の書ではなくて、 やりなおし、やりなおしの書ばかりだからです。 創意のないお手本の模造品ばかりだからです。 一枚一枚だいじに漉いた紙、紙が貴重な昔はいつでも本番でした。 草稿くらいはあったかもしれませんが、 おんなじ紙でおんなじものを 何十枚も何百枚も書くなんてことがあるはずがない。
後があるとおもうからだめなんだとおもいます。
手習い、目習いは質と量がたいせつです。
量のない質はありえませんし、
質のない量も無意味です。
その質と量に
縁(機会)があってはじめて身になります。
ひとが問われるということなのです。
品と風格があって美しい書がすきです。
そういう人生を歩みたい。
そんなことを願って、
書をたのしんでいます。
みずから獲得せよ
2005年1月 2日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
先祖から承け継いだ物でも、 それをおまえの真の所有にするには、おまえの力で獲得しなければならぬ。 役に立てることができないものは重荷だ。 現在生み出したものでなければ、現在の用に立たぬ。『ファウスト(悲劇第一部)』(ゲーテ/著,手塚富雄/訳,中央公論新社)
自分で見出しみずから獲得しなければならないのです。
そうしなければ、なにものも自分のものにはならないのです。
先人の歩んだ道を自分も辿ってみなければなりません。
だからこその臨書なのです。
「役に立てることができないものは重荷」です。
自分で獲得したものでなければ役には立ちません。
むしろ空真似によって自分を見失う危険の方が大きいでしょう。
学んでいるものや、感銘を受けた作品の影響が、
すぐに自分の書に出てしまいます。
しかしそれは決して体得しているものではありません。
自分がないから影響を受けやすいのかもしれません。
自分のものになっていないものが作品に出ると空虚なだけです。
書は技術だけではありません。
習ってしまったがために自分の書が書けなくなっている人が多いのです。
知識は煩悩です。知識は、あらゆるものを束縛します。
無知を知るための知識だといいます。
だからこそ、本物を裸の心の眼で観なければなりません。
自ら獲得し、真に「知る」必要があるのです。
知れば知るほど、道の遠いことを思わずにはいられません。
しかし、その険しい道を歩むことに心からよろこびを感じます。
自分の書へと昇華し脱皮するしか方法は残されていません。
自分がいまほんとうにしなければならないことは何か。
いったい自分はいまどこにいるのか。
常にそれを心に抱きながら、信じる道を歩んで行きたい。
遠回りを恐れてはいけない。
きっと
私にしかできないことがある
私にしか書けない書があるにちがいないと信じています。
無
2005年1月 2日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
無は、雨請いをするために巫女が呪飾をつけた衣の両袖をひるがえして舞う人の姿。説文解字という文字学の古典には無を「豊なり」とし、林に従う字とあるそうだが、篆字の誤った字形による解釈らしい。
無が「なし」という意に使われるようになったのは音の仮借である。のちに無がもっぱら有無の無、否定のことばとして用いるようになったため、舞うときの足のかたち「舛(左右の足が外に向かって開くかたち)」を加えて舞という字ができた。無が雨乞いの祭りの踊りからきていることから、舞は、鼓舞というように「はげます」の意にも用いられる。
現代の舞は楽しいイメージがあるが、雨乞いを神に祈る舞である。雨乞いが失敗すると牲にされる。
白川先生の遊字論に、
神隠るというように、神は常には隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった。神を尋ね求めることを、「左右してこれを求む」という。とある。尋は、左右の字を縦に重ねた形をしている。左という字は左手に工の形をした呪具をもつ形で、この呪具は神が隠れたり神を尋ねたりするときに必要なものである。右という字は右手に祝詞を入れた器である口(サイ)を持つ形である。左右、すなわち尋とは、神を尋ねる行為であった。そして神を尋ね求める行為として、舞が必要だったのだ。
今の中国の簡略字では無の代わりに「无」を用いている。无(ム、ない、なし)は、亡の異体字。
亡は手足を折り曲げている死者の骨の形。「死ぬ」、「逃げる」、「滅びる」の意味に用いている。亡に毛が生えて草むらに放置してあると「荒」となる。亡の「なし」の意は無と同様、その音を借りる仮借。
仮借ということは、「もとその字なし」で、その字を形象化しがたいので、音などを借りてあらわしたものということ。
無の概念はどこからきたのだろう。
参考文献:「常用字解」、「文字逍遥」(いずれも白川静著)
玉木浩堂(たまきこうどう)
2005年1月 2日 kodo | 個別ページ | トラックバック(0)

師
小野田雪堂
書歴
日本大学書道研究会 全日委員長
東京國際書展(於東京都美術館、第15回記念展)東京都知事賞
遼寧省東京書法交流展(於遼寧省博物館、1997年)
ほか
現在
書藝新潮社常任理事
(社中月例誌「書藝新潮」の随意参考・条幅参考の手本を執筆)
國際書画連盟理事(審査会員)
書き初め
2005年1月 2日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
子供と書き初めをしました。
息子は「お正月」と書きました。
お世辞にもうまいとはいえませんが、
とても気持ちがよい字です。
酉(とり)
2005年1月 1日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
なぜ酉年の酉というのがこの字なのでしょう。
どうして酉を「とり」と読むのでしょう。
漢字源(学研)によると、
作物をおさめ酒を抽出する十月。のち、十二支の十番めのとりに当てる。とあります。
十二支の漢字は直接は動物を意味していません。
十番目というのがキーになったわけです。
酉に「とり」という意味があったわけではなく、
「酉」という漢字に「十」というおもみをもたせたので、
「とり」と訓ませただけのようです。
時刻では、午後六時の前後2時間。
方角では、西。
動物では、鶏。
酉(ゆう)は、酒樽(さかだる)のかたちです。
酒(さけ)のもとの字です。
でも本来、お酒というのは、神さまにささげるものです。
それをお神酒(おみき)といいます。
お神酒というくらいですから、
そのおさがりはとてもだいじですから、
きちんと最後までいただきます(^-^;
でもそのおさがりをいただくくらいが
ほんとはちょうどよいのかもしれません。
酒は百薬の長といいます。
酒、(白酒・清酒・薬酒)-百薬の長だが、過ぎれば毒-によると、
漢方薬などは水ではなくてお酒で飲むとよいのかもしれません。
(ふつうのおくすりは絶対にだめです。まわりすぎて毒になります。)
屠蘇酒(おとそ)も薬酒ですし、
”養命酒”の発想はむかしからあったのですね。
酒のなかでも、古酒(ふるざけ)はとてもだいじで、
ふるざけは、酒樽から酒気が発しています。
このさまをいうのが、酉の字のうえに八とかいた、
酋(しゅう)という字です。
部族のいちばんえらいひとを酋長といいますよね。
このふるざけの入った酒樽(酋)を、
両手でささげて神前におくかたちが尊です。
尊いというのは、お酒を神さまにささげることだったのです。
樽というのは、木へんに尊とかきます。
神さまにささげるときにつかう木製のたるを樽というのです。
中国の殷王朝では、祭祀(さいし。祭りのこと)に、
お酒をたくさんつかいました。
数千年もまえのことです。
お酒は国を滅ぼすといいます。
殷王朝は酒によって滅びたともいわれています。
酒を飲んでも呑まれるな。
お正月。せいぜい飲みすぎには注意しましょう。
参考文献:
「常用字解」(白川静著、平凡社)
「漢字源」(藤堂明保編、学研)
新年おめでとうございます。
2005年1月 1日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
つい先ほど、このブログを立ち上げました。
どうぞよろしくお願いいたします。
初心にかえって学ぶ、というのを今年の抱負にします。
たとえ下手であっても、
きちんと自信をもって書けるようになりたいとおもいます。
それには、いままでのように好き勝手だけではなく、
初心にかえって学習しなおさないといけないと痛切に感じています。
毎日筆をもつのは当然ですが、
毎週の教室にも顔を出し、
先生にお会いするときには恥ずかしくとも書いたものを必ず持っていく。
毎月の課題をきちんとこなす。
こういったあたりまえのことをしっかりやりたいと思います。
小野田雪堂(おのだせつどう)
2005年1月 1日 kodo | 個別ページ | トラックバック(0)
玉木浩堂の師、故小野田雪堂先生の略歴です。
小野田雪堂(おのだせつどう)
URL: http://onoda-setsudo.com/
本名:稔
字:豊斎
斎号:臥牛庵
大正14年 東京に生まれる
昭和15年 陸軍生徒
昭和20年 復員する
昭和24年 書塾墨心書道会を開く
昭和32年 日展初入選、以後6回入選(昭和42年以降不出品)
昭和44年 書藝新潮社設立
昭和47年 ミュンヘン第20回オリンピック芸術祭に赤羽雲庭先生と参加
昭和48年 ミュンヘンオリンピック組織委員会より感謝状を受ける
國際書道連盟設立
昭和52年 四人展(鈴木桐華、仁平鳳竹、小野田雪堂、明石春浦)
昭和53年 中華人民共和国訪問
東京都書道連盟設立、理事長に就任
岩谷時子作詞・小野田雪堂書作展(帝国ホテル)
『小楷千字文』出版
昭和54年 岩谷時子作詞・小野田雪堂書作展(帝国ホテル)
昭和55年 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国リエカ市日本書道展に参加
ベオグラードに於けるユネスコ世界大会美術展出陳
岩谷時子作詞・小野田雪堂書作展(帝国ホテル)
昭和60年 東京北京連合展のため中華人民共和国訪問
小野田雪堂展―山頭火の世界―(ゆふきや画廊)
『顔真卿三稿』出版
昭和63年 マレーシア全国書法展審査員として訪問
平成1年 國際書法藝術連合ソウル展招待を受けて訪韓
吉原義人刀匠と二人展
『三体千字集』出版
平成2年 『真草千字文』出版
平成4年 東京北京連合展(日中外交正常化20周年記念)のため
中華人民共和国訪問
小野田雪堂展―祈りの世界―(銀座松屋)
平成5年 中華人民共和国文化部主催國際書法藝術連合に招待を受けて訪中
『臥牛庵雑録』出版
平成7年 5月、小野田雪堂・易斎王丹二人書画展(遼寧省博物館)
11月、小野田雪堂・王丹―日中水墨の出会い―展(佐野美術館)
『一字値千金』出版
平成8年 北山文庫設立
平成11年 『真草唐詩選』出版
平成12年 小野田雪堂・太田新之介「清遊の書画展」(ギャラリー珎玄斎)
平成13年 金子みすゞ・山頭火の詩を描く―小野田雪堂の世界―展(佐野美術館・致道博物館)
國際書画連盟設立、理事長に就任
平成14年 『万葉戀歌八十八首』出版
平成15年 小野田雪堂・太田新之介・眞鍋井蛙「三遊展」(鳩居堂ギャラリー)
『学習蘭亭序』出版
平成16年 『小野田雪堂書画集―鈍牛の足あと―』出版
『一字千金』出版
雪堂美術館設立
平成17年 (10月15日)逝去
平成17年逝去当時
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國際書画連盟常任顧問
遼寧省中国書法家協会名誉会員
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