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張瑞図(ちょうずいと)

2005年1月10日 kodo | | コメント(0) | トラックバック(0)

張瑞図は、明末の四大家として名高かったのです。
悪人にされてしまうまでは。

張瑞図は、エリートです。
そういえば、明末の書をものするひとたちはみなエリートですね。
科挙に38歳で進士、皇帝がおこなう殿試では第三席で及第しています。

その後は順調に官吏の道をあゆみます。
57歳のときに礼部尚書という役職で内閣に入閣します。
内閣は皇帝の頭にあたる」(by 桃花さん)といいます。
ようやっと行政の中枢にはいったわけです。

このころ書いたのが、あのすばらしい杜甫飲中八仙歌巻です。

そのころは宦官の魏忠賢が権威をふるっていました。
魏忠賢といえば、中国至上いちばんの悪人ですよね。

明ができたときには、宦官は廃止抑制されたのですが、
第3代の永楽帝のときに復活していたのです。
宦官が政治に口をだすようになると世が乱れます。

この魏忠賢に可愛がられたのが張瑞図の運の尽きでしょう。
張瑞図はひとがよいのでしょうか、つい色々なものをたのまれたまま書いてしまいます。

董其昌などは、
魏忠賢が政治をもっぱらにしているとみるや、早々と辞職しています。
それでもあとでちゃんと戻ってくるんだから董其昌はたいしたものです。

さて、翌年に毅宗(きそう)皇帝が即位すると、魏忠賢は失脚します。とうぜんですが、死罪です。
やはり張瑞図も弾劾されました。
毅宗は張瑞図を庇護して昇任させましたが、張瑞図は辞職を申し出ます。
故郷、福建に帰りますが、
魏忠賢の生詞を書いたことなどなどがバレてしまって、
けっきょくは官職を剥奪されて、平民におろされてしまうのです。

張瑞図は明にしか仕えませんでしたが、やっと中枢でちからをふるえるというときに、
たった一年で汚名を頂戴し、しまいには平民にされてしまうのです。

清には仕えていません。平民ですから、ずっと故郷で自適に暮らします。
明は漢民族による中華帝国ですが、清はツングース系ですからね。
倪元璐(げいげんろ)は明の最後の毅宗に殉死しますし、
黄道周は清軍に捕らえられても降伏しなかったので殺されます。
黄道周と倪元璐は同年の進士です。同期生なのです。
傅山も清朝にはつかえないで節をまっとうします。
王鐸は明清、二朝に仕えてしまうから、いろいろいわれてしまうのですね。
節操がないということで、王鐸はやはり中国では好かれませんでした。

それにしても、世が乱れると、思想にしろ、文芸にしろ、じつに活発になります。

明末といえば、董其昌。その20歳くらい年下が張瑞図です。
張瑞図は、53歳のころに董其昌と会ったことがあるようで、
そのときに、董其昌は張瑞図の小楷を誉めたそうです。
董其昌としては、張瑞図の行草を誉めるわけには行かないのでしょう。
董其昌もエリートです。35歳で二席で進士に受かっています。
科挙に受かるには小楷が書けないといけないわけです。公用文はみな楷書です。
張瑞図からまた20年くらいあとに
黄道周や王鐸、倪元璐(げいげんろ)がうまれています。
古典を背後に感じる王鐸などとちがって、張瑞図は、まったく古典を感じません。
こうなると独自の書法といってもよいでしょう。
科挙に受かるのですから古典をやらぬはずはないのですが、
なにを勉強したのかがわからない。

張瑞図の書法はとても現代的です。
重心はしっかり据えられていて、左右に重心がうねることはありません。

王鐸などは、前の重心を受けながら、じつにみごとに左右と流れていきますが、
張瑞図は左右に重心が振れることはありません。
筆遣いだけに惑わされてはなりません。
小楷をみても、行草をみても、行間をしっかりととり、一本のまっすぐな木をみせてくれます。

王鐸や傅山などとは受け応えという意味では異質なものです。

張瑞図は、故郷に帰ったのちは、禅宗にこころを寄せ、酒と陶淵明を愛し、自適な生活を送ったようです。
平民だからといって、落ちぶれたわけではありません。

汚点を残したために、その作品は、中国では軽視されつづけました。
張瑞図が水星のため、火厄のおまもりとして飾るひとはあったそうです。
ひどい扱いですね。
それでも張瑞図は福建だったため、日本にはずいぶんと入ってきて愛されたようです。

参考:
書道全集 21巻(二玄社)
中国書道史 下巻(宇野雪村著,木耳社)
中国法書ガイド52 張瑞図集(二玄社)
桃花さんの「魏忠賢」「明は、何故滅亡したのか?」
歴史研究所

追記:
2005.1.29
明の初代皇帝である朱元璋は、宦官を数千人粛清し、宦官抑制策をしいていましたが、廃止したわけではないようです。『中国通史(講談社学術文庫 1432)』(堀敏一著、2000年、講談社)に、

明では、国初から国家体制のなかで宦官が重要な地位を占めていました。すなわち朱元璋は錦衣衛という秘密警察を、永楽帝は東廠という同様な機関を設けて、ともに宦官を任命し、近衛兵を指揮して人々の行動を監視させました。
とあります。朱元璋は四千人?もの宦官を粛清したと記憶していたのですが、いいかげんですみません。『宦官 改版(中公文庫)』(三田村泰助著、2003年、中央公論新社)によると、太祖(初代。朱元璋)は抑制策だったのですが、その子の建文帝(ニ代)が宦官を嫌ったようです。そのため、宦官は燕王(のちの三代永楽帝)に味方するようになり、帝位をのっとられたようです。
明の太祖は漢、唐における宦官専権の事実を知っていたので、極力これを抑える方針をとった。したがって宦官の数もはじめは百名にみたなかったが、のち増員したので、その末年に宦官の職制をさだめ、十二衙門となした。その抑制策としては、宦官が外臣の官職を兼ねることを許さず、その官の身分も各省の次官のつぎにあたる最高四品の位でおさえた。これは唐の官制をそのままうけついだものであろう。
若い幼帝に儒教思想を叩きこんだ結果、一途な青年君主の目に、宦官というものが不潔な亡国的な存在に見えだしたことである。太祖の抑制策ではただ宦官を内廷にとじこめておくという方針にしたのを、建文帝は勘ちがいして宦官を苛酷に圧迫した。(中略)宦官たちはその仕打ちを怨み、燕王が彼らをいじめた建文帝に対して兵をあげると、そのうちから王の下に投じて建文帝の情勢を細大もらさず提供するものがでた。これによって、一時は劣勢におちいった燕王側に決定的な勝因がもたらされることになったのである。

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