真蹟と法帖
2005年1月18日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
「漢晋人の真蹟の価値とその学び方(埜本白雲)」(by tianpianさん)を読みました。
筆意を知るには真蹟に若くはないのですが、
風韻・古意を知るには、法帖のほうがよいのかもしれません。
いえ、これは印刷物で学ぶ場合の話です。
学書には便利な世の中なのですが、
真を得たければ、写真を本物と勘違いしてはいけません。
本物の「真蹟」ならば、事情はちがいます。
真蹟は生きているからです。
本物を常に身近に見ることができるひとは、
本物の風格を自然に身につけるかもしれません。
智永の千字文の真蹟を東京国立博物館で目にしたことがありました。
それまでの印象はがらっと変わりました。
写真ではだめだ。
こころからそうおもいました。
写真では用筆はわかりますが、
もっとも大事なものが不足しているのです。
真蹟にしろ法帖にしろ、印刷物ではない本物が欲しい。
書の厚み・重みが違うのです。
これは決定的です。
これが自分の書の厚み・重みになってしまうようにおもいます。
本物の法帖で学びたい。
現代の書が妙に薄っぺらなのも、こんなところに原因があるのかもしれません。
鍾繇や羲之や献之の真蹟をみることができないのが残念です。
それを憧憬するしかない。
「私の家には書道界に誇るべき書物が一部ある。それは敦煌発掘の漢晋時代真蹟の字書である。」
とありますが、その字書というのはどのようなものでしょう。
それにしても、古い時代のものを、たとえ字書に頼りながらであっても
現代の私たちが読むことができるというのが驚異です。
字書ほど安いものはない、と本当におもいます。
それが編纂されるまでの道のりをおもいます。
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コメント(2)
tianpian :
トラックバックありがとうございます。
昭和11年時点の埜本白雲氏の木簡等につての文章ですので、多少古めかしいところもあるのかなあ、と思います。
埜本白雲氏は自分で一字一字切り抜いて字書を作ったのでしょうかね。
本物が持つ力はおっしゃる通りですね。木簡も本物は風化の味の加わった実に美しい墨色です。写真では分かりません。
kodo :
tianpianさん、お世話になっております。本文をきちんと読まずに誤読してしまいました。
赤井清美氏も、丹念に集字した字書をつくっていらっしゃいますが、そういった地道な作業は、どうしても必要なことなのかもしれません。
雪堂美術館にある竹簡は、漆で書かれたようです。墨色に艶があり、もりあがった感じです。細微でありながら悠然としており、宇宙を感じてしまいます。
漆で思い出しましたが、『文字の発見が歴史をゆるがす』(福田哲之著、二玄社、2003)のp.216「楼蘭文書の滲み止め」に、「竹簡がごく薄い竹に墨書してあるのに、なぜ全く墨が滲んでいないのか」という問いに、「かなり濃い墨」ということではなく、「滲み止め」という推論を出しています。それが紙の普及につながったのではないか、ということらしいです。
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