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静(青・月)
2005年3月12日 kodo | 個別ページ | コメント(4) | トラックバック(2)
sumi-mojiさんが、「静」の字のことで、ご紹介してくださいましたので、
「静」という字から、すこしたどってしらべてみます。
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上田桑鳩『臨書研究(上・下)』
2005年3月 7日 kodo | 個別ページ | コメント(5) | トラックバック(0)

興文社。昭和15年刊。
桑鳩氏は、天来翁の臨書を、
それは常に臨書は一家の見識を以てすべしと主張した如く、冩實的であつたが奴書ではなかつた。手本の缺陥を補ひ、手本よりも優れた臨書を創作せんことを旨とした。彼の創作はそこから生れたと云ふことが出来る。と、第六章「古人の臨書に対する研究批判」の「比田井天来」の項において書いています。この項で、天来翁の「書の熟と生の問題」について、桑鳩氏は以下のように述べています。すこし抜き出してみます。(行あけは、中略。太字はkodo)
前者の生書とは個性そのままの現れたものを指し、後者の熟書とは習ひ込んで熟練し、洗練と習気によって観念的に達者に書いて個性の薄らいだ書を指すのである。書を習ふのには熟達は必要であるが、熟達と同時に自己の本質の顕現をすることでなくてはならないのであるから、その為めには自己の持つて居る生粋の生なものを失はないで出さなければならない。
然るに書を習はない人の書は野性そのままで生書である。それを洗練して格に入る為めに練習をしなければならない。さうすると自己の獨自性が薄ぐ。故にこの洗練されて本格になつて後に獨自性を出す為めに、洗練した中に自己の生のものを出す必要がある。さうすると澄んだ磨かれた中に味のあるものが出来る。
その味は筆者の個性から生まれるものではあるが、書を習はない前に出たものと、一旦習ひ込んでから出るものとは質が同じであつても野性と精選されたものとの差がある。
学書者はこの理を弁へて一旦は鍛錬して熟するが、更にその中に生なものを出すべきであつて、書は熟後の生でなければならぬことを主張した。
臨書方法は最初は極めて忠実精細に写実し、用筆法を合はせつつ筆意を得、手本の感じに合する様に習ふ方針であるが、単なる悪写実ではなくて、運筆の活動と、気合の合ふことを特に厳重にしたのであつた。
書を専門的に習ふ者には最初に広く学ばせて、一法帖を深く習つてその型に嵌めてしまふことを厳重に禁じたことは、他の一般の師匠とは異なつて居たのであります。
諸々の法帖を循環的に習ふことによつて手に習気の付くことを防ぎ、一つの型に嵌らないで上達し、且つ広く学ぶことによつて、多角型的に一つの法帖を見ることを奨励したのであります。
それで或は傑出したものとか、一つの型に於て完成したと云ふ者はないが、大きい未完成の者が多数養成されたのであります。
彼自身が誇るべき偉大なる未完成であつたと同様に、門下生も皆未完成のままに育てられたのであるが、そこに量り知れぬ将来性があるのであります。
天来翁を「偉大なる未完成」と言い切るあたり、じつに痛快です。
教育というものの要諦は、
型に嵌めることではなく、
将来性を引き出す、というところにあるのだとおもうのです。
いやしくも芸術の一分野たる書をおしえるのであればなおさらです。
習ったがために、自分の書が書けなくなってしまうひとのなんと多いことか。
天来翁が「習気」をとことん嫌ったのは、
天来翁が生粋の芸術家だったからです。
「生書」を岡本太郎氏に言わせると「爆発」ということになるでしょう。
偉大なる芸術家というのは、
まさしく桑鳩翁の指摘するとおり、偉大なる未完成なのです。
日下部鳴鶴『熊野遊草 禹城遊草 芳渓雑題十首』
2005年3月 7日 kodo | 個別ページ | コメント(3) | トラックバック(0)


『和漢名家 習字本大成 第八巻』です。
第四回配本とあります。
昭和8年に平凡社から出ています。
このように、自作の詩を書き溜めておくと、
いつ誰に揮毫するにも重宝するだろうとおもいます。
その書は、格の高いすばらしいものです。
参考
2005年3月 6日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
日本国語大辞典【いろはうた】
2005年3月 5日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
澄翔さんの、「いろはうた」知っていますか?を読みました。
興味がでたので、ちょっと調べてみました。
小学館の『日本国語大辞典(第二版)』の「いろはうた【以呂波歌】」の項に、
涅槃経(ねはんぎょう)の四句の偈(げ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」の意を表わしたといわれる「色はにほへど散りぬるを、わが世たれぞ常ならむ、有為(うゐ)の奥山けふ越えて、浅き夢見じ酔(ゑ)ひもせず」の七五調四句四七文字からなる今様歌。同一文字が重出しないようにして作られており、平安中期ごろ韻学の世界で作られ、声調を整えるのに用いられたが、また手習いの手本や字母表および物の順序を示すのにも使われた。とあります。澄翔さんのところで知ったとおりでした。
それにしても澄翔さんの偈の訳はみごとですね。
さらに、語誌に、
俗説に、弘法大師の作というが、「いろは歌」に、ア・ヤ行の「エ」の区別のないことなどから現在は否定されている。ともありました。
文字をならべかえて別の語句をつくるのを、アナグラムというそうです。
日国.NETは日本国語大辞典第二版のオフィシャルサイトですが、
ここの「小林祥次郎の日本のことば遊び」第9回 いろは歌のアナグラムにくわしくかかれています。
この日本国語大辞典は、百科事典のようです。
ことばをしらべるときに、ひくのがたのしみな辞典というのはそうそうありません。
古典からの例がじつに豊富に掲載されています。
出典が載っているのがよいのです。
しりたかったことを解決するため、というよりは、
むしろそこから疑問が湧き出てきて、
つぎからつぎへとたどってついに深みにはまる、
ということを楽しめる辞典です。
こういった、問題意識や探究心を継起する書物がすきです。
そういう意味では白川静先生の『字統』や『字通』などもそうですね。
私は『常用字解』を鞄に入れて、暇なときに「読んで」 います。
さきの日本国語大辞典には、いろはの四七にちなんだことばもあります。
「伊呂波塚」は、赤穂義士四七人の墓を「いろは」四七文字にかけていう呼び名。
江戸時代の「いろは茶屋」は、47軒ならんでいたからだそうですし、
江戸のいろは組町火消しは、い組、ろ組など47組に分けたところからきたそうです。
いろは歌を、「イ、ロ、ハ、ニ、ホ、ヘ、ト」というように
文の意味を考えずに、文字の音だけを追う読み方は、
「いろは読み」というそうです。
「いろは歌」をいま、息子に言わせてみたところ、やはり「いろは読み」なのですが、
なぜか「けふ」と「ゑひもせす」だけは、「きょう」、「えいもせず」と読んでいます。
そういえば、私も覚えたときは、ごちゃごちゃだったような気がします。
「いろは」は、古来、順番づけにも用いられています。
a. ... b. ... c. ...
とおなじです。辞典をみると、
いろは順、いろは番付、いろは引き、いろは符牒、いろは船など、
その順番づけに用いられた例です。
いろはガルタ、いろは短歌、いろは文字鎖、いろは回しなど、
遊びにも用いられています。
「いろは」というのは、手習いのはじめに教わるもの、ということから、
初心者用、手始め、というような意味にもつかわれます。
「いろはのいの字も~」というようないいまわしってありますよね。
習字のいっとう最初は、むかしから「いろは」からだったのです。
澄翔さんの「いろは歌」のお手本、
のびのびしていてきもちよいです。
こういうお手本でまなべる子供たちはしあわせです。
中国の「いろはうた」にあたるのは、
千字文(せんじもん)でしょうか。
松岡正剛の千夜千冊に、岩波文庫の『千字文』(小川環樹・木田章義注解)の書評がありますが、
私もこの岩波文庫にはとてもお世話になっています。
![]() | 千字文(岩波文庫) 小川環樹注解・木田章義注解 |
千字文は古来、習字の手本とされてきました。
文字(漢字)をならうにはとてもよい手本になります。
いずれ、この千字文について書いてみたいとおもっています。
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