錬成会
2005年7月16日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
きょうから私の社中、書藝新潮社の2泊3日の錬成会です。
錬成会といえば、
上條柊濤先生のお部屋でのにぎやかなお酒
小野田仁さんと書藝新潮社の未来を語り合ったこと、
とても楽しく思い出します。
錬成会には、篆刻の指導で、久保田大卿先生がいらっしゃいます。
白川先生の「漢字」ほか数冊の本を、久保田大卿先生より頂いたのは、
いまから10年くらい前のことでした。
通読はしましたが、そのときは、なにがなんだかさっぱりでした。
白川静先生の世界に眼をひらきはじめたのは、
ほんとうの意味では、ごく最近のことです。
なんということでしょう。
7月10日に、
京都で白川静先生の第24回「文字講話」があったそうです。
そしてこの回が最終回。
95歳の先生は、2時間半ものあいだ、立ちっぱなしで講演されたそうです。
今回が最後ということですから、
その後、花束贈呈やら代表の挨拶やらのセレモニーが続いたそうです。
その間、周りの者が椅子を用意し、お座りになることを勧めたそうですが、
それを拒み、挨拶の言葉を話し続ける人の方を向き、立ち続けられたとのことです。
講演は
現在をただ生きるだけでなく、という話で締めくくられたそうです。
未来から現在を見る時に美しいと感じられる現在を生きていると言えるか否か。
出会っていても、眼がそこに向かないと、素通りしてしまうかもしれません。
縁なのだとおもいます。
機が熟していないと、出会いが出会いにならないのです。
「時すでに遅し」ということばがあります。
でも、遅いということはないのです。
そのときが、そのひとにとっての、出会いだからです。
ひとのいのちは儚いものです。
そして、ひととの出会いは、
相手があっての出会いです。
双方に
縁があり、
機があり、
それを受けとめられるだけの器がある。
出会いというのは、とても無常なものなのです。
有りがたいものです。
中国に行った際に、万歳通天進帖を遼寧省博物館で拝見しました。
感動しました。
しかし、私が受けたものと、師の小野田先生の受けたものとは、
重みも質もまったく異なるものだとおもいます。
受けるもの、それはそのひとのそれまでの人生と、
そのひとの生きかたによって変わります。
「いま」だいじなものを、だいじにしよう。
「いま」出会えた縁を、だいじにしよう。
「いま」は、もう、このときだけだから。
「いま」出会えなかったら、もう二度と出会えないかもしれない。
また出会えたときには、縁を受け止められるように。
いまは素通りしてしまうかもしれないけれど、
もしそれが私にとって必要なら、
いつかきっとまためぐり逢うにちがいない。
どこか遠くで。
現在をただ生きるだけでなく、
未来から現在を見る時に美しいと感じられる現在を生きていると言えるか否か。
あゆみはじめたばかりなのです。
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コメント(2)
鷺游 :
kodoさま、素晴らしい御言葉、有難う御座います。
白川先生の御言葉は改めて自らを見つめ直す大きなきっかけとなります。
「文字講話」、今回が最終回であったのですね、、
白川先生にはご無理のなきよう、益々お元気に過ごして頂きたいと願う所存です。
御縁、また出会えた時には、心から受け止められるよう器を拡げ、成長していきたいものです。
御言葉、胸に刻み込みますね。
kodo :
●鷺游さん
ありがとうございます。
全20回で一度完結しているのです。
「文字講話」は、専門家向けの講義ではありません。
”ひろく一般に”問うていらっしゃるわけです。
白川先生が伝えたいものはなんなのか。
白川先生によって、漢字にあらたな息吹がふきこまれました。
許慎の「説文解字」は二千年です。
白川文字学はまだはじまったばかりなのです。
口(サイ)は、器(うつわ)でした。
神のこえをきくには、口(くち)は必要ないのです。
あとは目と耳と手と足、からだがあればよい。
からだをつかってみずから出向くこと。
道ははじめてそこにあらわれるのでしょう。
先生の視点は常に日本の将来にあるようにおもいます。
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