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第36回 書藝新潮社書作展
2008年6月13日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)

小野田雪堂先生の遺作も一点展示されています。
玉木浩堂の作品も一点あります。
玉木浩堂は、14日(土)に会場におります。
ご批評ご指導くださいますようお願い申しあげます。
会期: 2008.6.13(金)~2008.6.18(水)
11:00~18:00 (最終日は15:00まで)
会場: 有楽町朝日ギャラリー(有楽町マリオン11階)
第二回 雪堂茶会
2008年6月 7日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)

2008年5月24日(土)、北鎌倉の雪堂美術館で開催された、
第ニ回雪堂茶会で、書をしたためました。
いっしょにコラボレーションしたのは、KNOB(ノブ)君。
茶会の席で書をしたためる、というのも、
音とともに書のライブをするというのも、
初めての経験だったのですが、
KNOB君のディジュリドゥと想いが私の奥底に染み渡って木霊し、
こころを込めて書をしたためることができました。

書は音や茶と一緒、すべて一期一会。
ディジュリドゥは、大地の呼吸です。

したためたのは、故小野田雪堂先生の詩です。
僧寺 南窓の下、
煙を帯び 情もまた加わる。
東風、春暖を促し、
黄鳥、梅花を夢む。
一夕 瓶花の下、
胸中 古賢を慕う。
心閑に 禿筆を揮い、
句を案じ、華箋を染む。
いずれも雪堂先生の自作の詩です。
紙は聯落、故大木江柳先生が遺してくださった二双の和画箋、厚手の紙です。
水は朝、KNOB君が汲んできてくれた清水。
墨壷に使わせていただいたのは、「心正筆正」。雪堂先生の作られたものです。
朝からあらかじめ濃く摺っておいた墨に、さらに水を足します。
落款に印を押して終わります。
雪堂先生を偲びつつ、
墨液をたてるところから、落款印を押すところまで、
すべて通してやらせていただきました。
墨というのは、濃墨を摺ってから水で薄めるものです。
たとえ薄墨の作品であっても、はじめから薄く摺るわけではありません。
印を押さない作品というものもありますが、
印の押し方によって作品が生きたり死んだりします。
筆を揮う一連の所作、印を押すかどうか、どの印をどこに押すか、
すべてその場ではじめて決まるものです。
墨を摺る。
書をしたためる。
落款で締める。
あらゆることにはすべて意味があります。
茶もいっしょだろうとおもいます。

岩笛に心を静め、ディジュリドゥとともに、
雪堂先生へ捧げる書をものすることができました。
みなさんに感謝です。
ありがとうございました。
「特集陳列 蘭亭序」 於東京国立博物館&書道博物館
2008年4月 8日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
東京国立博物館と書道博物館の同時開催です。
あと一月弱です。
各種の蘭亭序を比較検討するよいチャンスです。
東京国立博物館
東洋館第8室 2008年3月4日(火) ~ 2008年5月6日(火)
台東区立書道博物館
2008年3月1日(土) ~ 2008年5月6日(火)
幸いなことに期間中の展示変えはないようです。
第23回蘭友書展に行って来ました。
2007年9月 6日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
蘭友書展の会期をランヨウさんのページで知りました。もし見に行けるとしたら初日だけでした。しかも初日がちょうど私の社中の錬成会の初日にあたっていて、11時には小川町まで行かないといけなかったため、とても駆け足の拝観になりました。
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柳田泰雲書道美術館
2006年8月12日 kodo | 個別ページ | コメント(3) | トラックバック(0)
避暑の折、八ヶ岳柳田泰雲書道美術館を訪れました。
觀山さんの社中は、泰書会。
泰書会の主幹 柳田泰山は、泰雲のご子息でした。
上野の森で觀山さんの作品のある泰書展を拝見したときには、
多字数を書くことの意味、大切さを思い知りました。
今回、美術館に来て、故柳田泰雲の書をはじめて拝見しました。
泰雲はやはり楷書の名手でした。
とくに泰雲の細楷の美しさを知りました。
柳田泰雲の父にあたる柳田泰麓という方の書に驚きました。
二階の別室にあった草書の作品に目を奪われました。
泰雲と書風が全く異なっています。
泰麓の草書は絶妙です。
泰雲書道美術館に泰山の書も期待していたので、とても残念でした。
泰麓書道会を柳田泰雲が学書院と改めました。
その後、学書院を引き継いだのは、泰雲の妻、青蘭でした。
觀山さんのページに久しぶりに訪れました。
トラックバックをしようとしたら、泰書展の時期でした。
今年も心をあらたにするために上野の森に足を運びたいものです。
泰書展は志を感じます。気が充満しています。別格です。
近頃の臨書作品といえば、一部を条幅に臨書したものばかりを目にします。
やはり実寸で、全臨しなければ、見えてこないものがある。
多字数の全臨をやると、腹がすわって、精神が澄んできます。
臨書をもっと真剣にやらなければいけないと自戒。
矢部澄翔さんの『夏の書』作品展2006に行ってきました。
2006年8月 4日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)

矢部澄翔さんの『夏の書』作品展2006、書道教室展示に行ってきました。
ものすごい迫力です。とくに3年生の4作品がすごい。圧倒されました。
やっぱり、澄翔さん、先生のご指導がよいのだなぁと実感しました。すでに30人ものお弟子さんがいらっしゃるそうです。みなさんがたのしんで書いているのが目に浮かぶようでした。
童謡の「月の沙漠」(渋い!)を数人で合作した作品がありました。みんなで歌いながら書いたそうです。澄翔さんによると、習っていない漢字があったりで大変だったようですが、それにしても合作というのがよいですね。
書というのは、だれがつくったということが大事のような気になっていますが、そうではないのかもしれません。一人のひとの創意が最初から最後まで貫徹しているものを現代ではその人の「作品」と呼びます。個性の創意を重んじるのです。でもこれは、近代というか、西洋の個人主義の影響かもしれません。
幾人ものひとが、跋を加えたり、賛を足したり、自分の所蔵印を押したり、表具をしたり。これは合作ではないでしょうか。どんどん育って行くのです。個人主義の西洋では、他人の絵の上に直接収蔵印を押したりするのは考えられないでしょうし、絵は独立した作品ですから、画賛というのを付けてしまうというのはないですよね。ところが書画には、絵と書(賛)の書者が異なることはとても多くありますし、多くの人の手によって、ひとつの作品や法帖ができあがっていることが多いのです。これはある意味、文人ならではの共同作業です。
そういう意味では、澄翔さんのところの「合作」というのは、数人だからこそできる作品という意味で、すばらしいものです。私はむしろこの形式に、書画の未来のひとつの姿をおもいます。
高学年にもなってくると、ひとりひとりが上手に書けてしまうので、合作するのはかえってむずかしかったのではないでしょうか。よくここまでまとめたものとおもいます。
教室のみなさんで楽しんで書いたうちわもたくさん飾ってありました。
「星」という字の日のまんなかを金色の☆にしているうちわがあって、娘が、ビール、と言ったのには笑えました。
教室のみなさんが作成に取り組んでいるところの写真もたくさん飾ってあって、教室の空気がみえてくる、みなさんがたのしんでいるのがみえてくる、そんな作品展でした。
出来上がるまでの「過程」を見てほしかったんです。 書いた人、「作者の顔」が見える作品展にしたかったのです。今回は、息子と娘をつれて、みてきました。息子は郵便局の展示をみにいったことがあるので、澄翔さんの教室の展示は二度目です。帰りに息子と、そういえば、あのときもうちわが~なんて話にもなってたのしかったです。
とっても勉強になりました。これからもますますご活躍されることを祈ります。応援しています。
みんなのうた
2006年2月27日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
たったいま、
「みんなのうた」で、奥華子さんの声がきこえてきました。
[ みんなのうた ] の続きを読む
宮崎駿さんのインタビュー
2006年2月27日 kodo | 個別ページ | コメント(3) | トラックバック(1)
ついさきほど、NHKで宮崎駿さんのインタビューをやっていました。
「千と千尋の神隠し」とか「となりのトトロ」など、我が家でも何度も何度もくりかえしてみている作品があります。ところが、宮崎駿さんはこんなことをおっしゃっていました。
1回しかみなかったものは育つんですよ。
はじめはこれくらいだったものがもっとこのくらいに。
何度もみるとこれくらいのものはこれくらいのまま。
だんだん消費しちゃうんですよ。
そして逆に小さくなっちゃう。退屈して。
一度の出会いがとても大切なのです。
どのように出会うかが大切なのです。
いちど出会ったものは、時間がたつと熟成されてふくらんでくるのです。
こんなこともおっしゃっていました。
スケッチのときのことです。
覚えて書くんですよ。
覚えた段階でいろんなものを落っことすんです。
もっと簡単なものになってるんです。
みながら書かない。
風景でもなんでも、そのときはみてるだけ。
だからほとんどうろ覚えでやってるんですよ。
作品を書いていると、それから離れなくちゃだめだとおもうことがあります。
自分の書いているものをしっかり見すぎてしまうと
ここをああしたいとか、こうしたいとかいう観念や煩悩が先にたってしまって
そういったものに束縛されてしまって、不自然な書になってしまうのです。
開放されて自由に自然に書きたいですものね。
書の作品を書いていても、
数日後にもう一度書き直してみると
まったくちがったふうに育っていることがあります。
だから
やっぱりあきらめちゃだめですね。
(宮崎駿さんのことばは、メモしてなかったので、表現がずいぶんと違うかもしれません)
戌年
2006年1月 1日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
みなさまのご健康とご多幸をこころよりお祈り申し上げます
芸術新聞社《墨》誌上作品展
2005年11月16日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(1)
募集期間 2月1日から2月20日。
優秀作品は、2006年5・6月号の誌上に発表・掲載となります。
出品料は無料です。
ぜひ多くの方の出品をお待ちしております。
東條元昭さん、矢部澄翔さん、玉木浩堂の三人で審査します。
芸術新聞社発行の「墨(すみ)」という雑誌のスペースをもちいておこなう公募展です。
※この公募展は墨編集部の企画ではありません。
「女流書家 矢部澄翔」
http://yabe-chosho.com/
「澄翔☆書道奮闘記~OLから女流書道家へ~」
http://blog.livedoor.jp/atorie_masumi/
奈良裕之とKNOB 音霊と祈りの世界
2005年9月 6日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(2)
ブリジストンREGNO WEB(http://www.regno.jp/)の REGNO PEOPLEにKNOBくんのインタビュー記事が載りました。
最高にかっこいいです。
ぜひご覧ください。
万歳! がんばれ、KNOBくん。
今月は、奈良裕之さんとの共演で、ライブがあります。
楽しそうですね。

奈良裕之とKNOB 音霊と祈りの世界 ~色即是空 空即是色~
2005年9月23日(金)
会場 北鎌倉 雪堂美術館
定員100名
前売り3000円 当日3500円
出演 奈良裕之(パーカッション)・KNOB(ディジュリドゥ)
主催 東京プロフェッショナルズ
詳細は http://www.tokyopros.com/ku/
予約・問合わせは 東京プロフェッショナルズ(青樹さん)までとのことです。
PDF(460KB)
やさしい花
2005年9月 6日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)

奥華子さんの「やさしい花」の1フレーズです。
「愛する人を守れるように 人は生きてゆくのかな」
どこに向かえばいいのか 迷い探して歩いた日々「日経エンタテインメント」10月号87pに、メガネ特集?で奥華子さんが載っているそうです。奥華子さんの赤いメガネ、とっても似合ってますよね。 http://blog.livedoor.jp/okuhanako/
君がくれた白い花が 何よりも優しく見えたんだ
蘭友書展に行ってきました
2005年8月30日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)

りんりんさんの蘭友書展に行ってきました。
この上尾市民ギャラリーでは大五郎さんも個展をやられたことがあるようです。
りんりんさんとは初めてお逢いしましたが、りんりんさんのお人柄でしょう、なぜか初めてお会いしたとは思えないのです。つい誘われるままに、お茶までご馳走になってしまいました。ありがとうございました。
会場に入ってびっくりするのが、これが同じ社中なのか?とおもうくらい多種多様な作品だということです。楷行草あり、篆隷あり、かなあり、現代詩あり、篆刻あり、ありとあらゆる書体があります。意外だったのは臨書が多かったことでしょうか。
ずらずらと流して書いたような書がありません。
この雰囲気は、私の社中に非常に似ています。
ほとんどの方はお手本がないそうです。自分の作品ですから、あたりまえといえばあたりまえですが、これがあたりまえでないのが書の展覧会なのです。私の社中でも、先生からお手本をいただいて書いている方ばかりです。
書壇院は、吉田苞竹先生の創立した会です。
私がはじめて苞竹先生を知ったのは、学生のときに買った『墨』誌の特集でした。苞竹先生は書の教育に尽力され、若くして永眠された、日下部鳴鶴先生の晩年のお弟子さんです。私が最近読み直した本に、吉田苞竹先生著の『書談』があります。
書は心藝なり。心藝は第一に風神を尚ぶ。巧を誇り奇を衒ふの書は、要するに手藝に過ぎざるなり。我黨の士よ。願はくは眼を高所に着けよ。書を習ひて正法を得ざれば、是れ禅を学んで正法眼を得ざるが如きものなり。
どんなことがあっても初一念を通す。
志深きことばの数々、私はこれからも何度も読み返すことになるでしょう。
りんりんさんよりお聞きしたのですが、吉田苞竹先生のお弟子さんが展覧会のお礼をもっていくと、苞竹先生は「そんなことはしなくていいから本を買って勉強しなさい」とおっしゃられたというエピソードがあるそうです。こころの清い先生だったのですね。
りんりんさんは、瓦当もの、淡墨の一行もの、扇もの、篆刻と、じつに幅広い作品を出品されていました。どれも気に入りましたが、一番欲しかったのは扇子でしょうか。
それにしても和気藹々と大盛況でした。りんりんさんもひっぱりだこでした。
これからもぜひよろしくお願いいたします。
泰書展に行ってきました
2005年8月30日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)

上野の森美術館、泰書展へ行ってきました。觀山さんの作品を拝見してきました。觀山さんとはお会いしたことはありませんが、私の社中展にもお越しいただいたことがありますし、ぜひ観に行きたいとおもっていました。
觀山さんの作品は入ってすぐのところにあって、真っ先に目に飛び込んできました。会場の導入の作品というのは難しいのです。力が必要なのです。これが觀山さんだ。
気合を感じる作品群。
会場全体に、張りつめた緊張感。
冷徹で謹厳、厳粛な空気。
日頃の修練と作品に対する厳しさが染み入りました。
とにかく作品の完成度が高い。
社中展にはその会の色が濃く出ます。甘えまで見えてしまうものです。
この泰書展にはその甘えがどこにもないのです。
「もー絶対無理っ!!」というところまで燃え尽きるその精神力。
すべての作品に主幹泰山氏からのコメントがついているのには大変驚きました。若い精力的な力を感じます。
「泰斗」という社中誌が置いてあり、自由に持ち帰ることができるようだったので、何冊か頂いてきました。毎号に、主幹の巻頭のことばが書いてあるのです。これがすごい。精神修養の本なのかと思ってしまうほど気合が入っているのです。ひとりの求道者として、伝えたいものが沢山ありすぎる、といった風です。
この会はとてもよい緊張を保っているのだと思います。主幹のお人柄なのでしょう。泰雲書法を真摯に追い求める若き僧のようです。泰山先生は泰雲翁の目指した処を追い求める人たちの、その筆頭として皆をぐいぐい引っ張っておられる。
会場の入口に椅子があり、泰山先生みずからお客さんをお出迎えしています。筆墨がいつでも使えるように用意されています。
先生の慎ましい姿勢が、觀山さんの、みずからの作品への厳しい姿勢に繋がっているのですね。
臨書作品も数多くありました。泰雲書法ではない臨書作品も多くありました。これがまたすばらしい。生半可な気持ちで書いていないのです。臨書といえば全臨。臨書というと、たいていの会では、その先生の臨書法を踏襲してしまっているはずです。その主幹のフィルターがかかってしまうのは、ある意味仕方ないのかと思っていました。ところがこちらの臨書作品は、泰雲書法の亜流ではないのです。中国伝統文化への畏敬の念を忘れていません。
つい図録まで買ってしまいました。こういう会もあるのだということを振り返るために。先生に署名を頂けるようでしたが、お客さんでお忙しいようでしたので、失礼させていただきました。
觀山さん、泰書會のみなさん、エネルギーをありがとうございました。
禅寺に行ってきたような透き通った謹厳な気持ちになりました。
裏打ち
2005年8月 3日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(2)
觀山さんの裏打ち、堂に入ってきたようです。日課のように作業を行っていらっしゃるようです。
学生のころをおもいだします。学祭でおこなっていた学内展の作品の裏打ちはすべて自分たちでやっていました。代々先輩方が残してくださった額があったので、じつに安上がりに展覧会ができました。軸の仮表装も手がけていました。
大きなベニアには、半折を2枚。はられた作品を乾かすのに、部員がせいぜい4、5人程度しか入れないくらいの狭い部室内に何枚も一週間くらい置かれるものですから不自由はしましたが、自分の作品の乾き具合をみつつ待つ時間というのはじつにいいものです。
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錬成会
2005年7月16日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
きょうから私の社中、書藝新潮社の2泊3日の錬成会です。
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小龍子展
2005年7月 4日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
小龍とは龍のこども。小龍をやがて大人になり天に昇ります。
宝であり、われわれの未来でもある子どもたちが、希望に満ちてはばたくよう、
そんな願いを込めて名づけられた、子どもの展覧会です。
【展示内容】幼・小・中・高校生の作品を展示しています。
【会期】平成17年8月
1、2、3、6、
7、8、9、10、11、12、13、
14、
22、23、24、27、
28
【お問い合わせ先】雪堂美術館(Tel:0467-24-4563)
【主催】書藝新潮社
【後援】雪堂美術館

もし会期中に北鎌倉に家族でお出かけの予定があるのでしたら、お子さんに半紙を書かせて、出品してみましょう。郵送先は、7月末までに雪堂美術館宛てだったとおもいます。出品料等、くわしいことは雪堂美術館まで、お問い合わせください。
【文房四宝はどのように選ぶか?】澄翔さんコメント祭り参加記事
2005年7月 3日 kodo | 個別ページ | コメント(3) | トラックバック(3)
澄翔さんのコメント祭りに参加します。
【文房四宝はどのように選ぶか?】に対するトラックバック記事です。
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第3回 木の宇宙(KNOB&太田新之介)
2005年7月 2日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
KNOB大兄と太田新之介先生による「木の宇宙」第三回のご案内です。
KNOB君がディジュリドゥを吹き、太田先生が木のはなしをします。
日時: 2005年7月24日(日) 開場13:00 開演13:30
会場: 北鎌倉 雪堂美術館
チケット 前売り予約2800円 当日3000円
出演: KNOB(ディジュリドゥ)、太田新之介(建築家)
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啓功先生逝去
2005年7月 1日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(1)
xiyueさんの記事で知りました。
ご冥福をお祈りいたします。
- 著名学者、书画家启功先生今日凌晨逝世(图)(中国网)
---2005年06月30日 10:13:20 来源:国际在线 - 我国著名国学大师、书画大师启功先生逝世(新华网)
---2005年06月30日 11:50:15 来源:新华网 - 一代大师仙去 江苏书画界名人追忆启功先生 (新华报业网)
---2005年07月01日 12:37:50 来源:江南时报 - 启功,一棵苍老的松树(博客中国新知频道:blogchina)
---2005年07月01日 16:45 来源:人民网
- 啓功氏死去/中国の著名書家(四国新聞社)
---2005年06月30日 17:58(北京、共同) - 啓功さん92歳=中国の著名書家、日本と書道交流(毎日新聞)
---2005年06月30日 19:40(共同)
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奥華子さん、ありがとう。
2005年6月17日 kodo | 個別ページ | コメント(4) | トラックバック(3)
雨でした。
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甲骨文に使われた亀甲
2005年6月13日 kodo | 個別ページ | コメント(5) | トラックバック(2)
獣の肩甲骨の裏面に火をあて、表面にできた割れめで吉凶を占うのは、龍山文化のときには、すでに広く中国全土で行われていました。亀甲が用いられるようになるのは殷前期です。
ここで觀山さんが
占いに不可欠な亀甲は南方の海でしか採取できず、それを大量に集めるだけでも大変だったんでしょうね。
とコメントしてくださったので、疑問が湧いてきました。
卜占につかれた亀甲は、ウミガメだったのでしょうか。
いま、我が家にはつい先日祖父が池で捕まえた3cmほどのミドリガメを飼っています。近所の子も飼っていて2年目くらいですが、すでに15cmくらいになっていて、ときどき落としたりして大丈夫なのか心配ですが(笑)、ミドリガメは数年で2、30cm近くになるといわれています。
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占い
2005年6月12日 kodo | 個別ページ | コメント(6) | トラックバック(1)
日本歴史占い(http://uranai.artisthouse.co.jp/)というのがあって、妻が面白いからやってみよとすすめられるがままにやってみました。生年月日と性別だけなので、エゴグラムなどとは違って単なる占いなのですが、こういった結果を読むと、自分を振り返るきっかけにもなるものですね。
みなさんもよろしかったらぜひやってみてください。
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水引について
2005年5月28日 kodo | 個別ページ | コメント(7) | トラックバック(3)
sumi-mojiさんの記事「白・赤・金銀の"水引"は太陽・・・?」、たいへん興味深く拝読しました。とても勉強になりました。
「折形レッスン」には
いずれも太陽を意味する白あるいは銀を左側にして結びます。とありますので、左側の白・銀が太陽、ということなのですが、sumi-mojiさんの<白・赤・金銀の水引は太陽を意味している>となると、水引そのものが太陽、ということになりますでしょうか。
「水引の輪」が太陽だと説明しているページもありましたが、ブックマークしわすれました。すみません。
sumi-mojiさんの論考をまとめてみると、
「結び」の思想
=>一切の生命の根源である魂(たま)生み出した「むすび」の神
=>天照大神
=>太陽
=>水引
たしかにじつに壮大なはなしです。
sumi-mojiさんは、
「結ぶ」という行為がが魂(たま)を生む行為であり、その魂(たま)を司っている最高神がアマテラスの神(=太陽)ということなのだ。とまとめられています。わかりやすい説明に合点がいきました。
ただ、はっきり言えることは、「結ぶ」という行為は、神聖なものなのだということです。というのは、sumi-mojiさんの名言でしょう。そういう意味からいうと、水引はこころを結んでいるのであって、形はそのあらわれなのです。由来はともかくとして、何が正しいとかいうことではなく、神聖なきもちをもって、その地域の風習やしきたりにならうのが水引の礼であるようにおもいます。
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第28回官公書連役員展
2005年5月25日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
藤井さんが出していらっしゃるとお聞きしたので、官公書連役員展に行ってきました。
月曜日だったのですが、上野の森美術館は開館しているのですね。
他はみなどこも閉まっているのが残念。
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第26回芳林書展
2005年5月17日 kodo | 個別ページ | コメント(4) | トラックバック(0)
芳林書展(5月18日から22日まで)
神奈川県民ホールギャラリーで、芳林書展が開催されているようです。
芳林書展:個性光る470点を展示--18日から、県民ホールで /神奈川
拝見しに行きたいとおもっています。
都合がつくとよいのですが。
昨年の書展についての記事は以下にありました。
http://www.mainichi.co.jp/life/culture/jigyo/shodo-kai/sekai/2004/0513.html
「第26回芳林書展」(芳林書道院主催、毎日新聞社など後援)
山下公園前の県民ホールギャラリー(横浜市中区山下町)
水川舟芳会長
問い合わせは芳林書道院本部(045・353・1172)
毎日新聞 2005年5月7日より
結び切り
2005年5月12日 kodo | 個別ページ | コメント(5) | トラックバック(0)
弔事の結び切りの水引は端が地を向くように結ぶそうです。
市販されているのは天を向いているので、
まったく疑ってはいませんでした。
結び切り
二度とあってはいけないことを意味する解きにくい結び方です。婚礼と弔事に限って使います。婚礼では水引の端を天の方向に仕上げます。弔事には端が地に向かうように結びます。市販の不祝儀袋のほとんどが誤った逆方向で結ばれています。弔事には銀一色、または白と黒をつかいます。
水引は武家の作法だったのですね。
日本の工芸として世界に知られるようになった折り紙も、
この折形(おりがた)から発祥して遊戯として普及したものだそうです。
公家社会が絹の布とひもを使って贈り物を包んだのに対して、武家では和紙と紙を縒(よ)って作ったひもに水のりを引いた水引を使って贈り物を包みました。吉(吉事と日常)の水引は白と赤、格式が高いときには金銀のものを使います。いずれも太陽を意味する白あるいは銀を左側にして結びます。
ものを完全に包み込まないのが折形の基本なのだそうです。
そういえば、のしは端をすこし出しますよね。
のし袋ののしは、のしあわびです。
以前どこかの博物館でのききかじりですが、
鮑(あわび)の貝の巻きはじめが緑なのは、稚貝を放流したもの。
身の厚いクロアワビが多いそうです。
鯛(たい)も稚魚で放流して養殖したものは、
鼻の穴がくっついているのでわかるそうです。
『折形レッスン』で、山城さんは、
ただ単にきれいだから、というラッピングではなく、
古来の礼法をふまえたうえでの現代的な包みを模索しておられて、
とても興味深く拝読し勉強になりました。
山根一城さんのWebページとブログ
http://www.yamane-origata.com/
http://blog.yamane-origata.com/
偶然とは
2005年5月11日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
高梨豊
偶然はいけない。広告における写真とは、一つの決定されたイメージにむかって結集するための技術の提供である。技術にとどまる。偶然が忍びよってきては困る。たとえ幸福な偶然であっても困る。もっともその困る偶然の幸福を、つぎの機会に、決定されたイメージとして利用することはあるかもしれないが。
高梨豊
イメージをもって外へでる。ところがくいちがう。イメージの再構成をはかる。さらにもう一度崩れる。その崩れた瞬間に、思いもよらぬ偶然がはいってきた時こそ、理想的である。思ったとおりに撮れた時はつまらない。
東松照明
偶然とは、思わぬできごとであり、予想外、ある場合は、期待はずれであり、メスリである。作家はイバれない。誇りにしてはいけない。だが無視して写真は成立しない。偶然を飼いならすというか、偶然を全制作過程に組みいれる。
長野重一
思考の最先端は、できるまではわからないものだ。撮ってみなければわからないとはこのことだ。だが『タナからボタ餅』ということは、けっして偶然ではない。かまえて網をはり、すくいあげるのだから。偶然にたいして受けとめられなければ、もはや偶然ではない。自分の志向の逆の方向からきた偶然も、認識できれば偶然ではない。
アドビがマクロメディアを買収
2005年4月20日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)
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福岡地震
2005年4月20日 kodo | 個別ページ | コメント(5) | トラックバック(4)
テレビのニュースで知りました。
今朝、また福岡で地震とのこと。
先月20日の余震が、ひと月たったのに、まだつづいている...
いつになったら休まるときがくるのでしょうか。
どうかこころから皆様のご無事を祈ります。
エキサイト:福岡で震度5強 西方沖地震の余震か (共同通信)
エキサイト:<地震>JR博多駅発着の列車ストップ 高速道も通行止め (毎日新聞社)
エキサイト:<地震>福岡市で震度5強=午前6時11分 (毎日新聞社)
佐賀新聞:教訓震度6弱-福岡西方沖地震
[ 福岡地震 ] の続きを読む
ついでに模様替え
2005年4月19日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)
xiyue さんより
> まだ記事が上手く表示出来ないのですが・・・(涙)。
> 拒否されているみたいで、ちょっと悲しい。
とコメントをいただいたので、
xiyue さんに表示されるのを目安に、
シンプルに書き直しています。
[ ついでに模様替え ] の続きを読む
第33回 書藝新潮社書作展
2005年4月11日 kodo | 個別ページ | コメント(8) | トラックバック(0)
日時 2005年4月12日(火)~17日(日)
AM11:00~PM6:00 但し17日はPM4:00まで
場所 東京銀座画廊
東京都中央区銀座2-7-18 銀座貿易ビル8F
TEL 03-3564-1644
入場は無料です。
主催 書藝新潮社/後援 國際書画連盟
[ 第33回 書藝新潮社書作展 ] の続きを読む
木の宇宙-祈りの音と不思議な雪堂門-KNOB&新之介
2005年4月 6日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)
4月24日に、KNOBくんのライブ&太田新之介先生の講演がありますので紹介します。
-祈りの音と不思議な雪堂門-KNOB&新之介
2005年4月24日(日)
開演13:30
チケット前売り予約2800円(当日3000円)
KNOBのアコースティックディジュリドゥライブと建築家太田新之介による
雪堂門(新様式の門)と木の建築のお話
初めて実現した雪堂美術館ならではの夢のコレボレーション
予約申し込みは メール tennen@knob-knob.com
電話 雪堂美術館 0467-24-4563
参考
2005年3月 6日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
日本国語大辞典【いろはうた】
2005年3月 5日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
澄翔さんの、「いろはうた」知っていますか?を読みました。
興味がでたので、ちょっと調べてみました。
小学館の『日本国語大辞典(第二版)』の「いろはうた【以呂波歌】」の項に、
涅槃経(ねはんぎょう)の四句の偈(げ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」の意を表わしたといわれる「色はにほへど散りぬるを、わが世たれぞ常ならむ、有為(うゐ)の奥山けふ越えて、浅き夢見じ酔(ゑ)ひもせず」の七五調四句四七文字からなる今様歌。同一文字が重出しないようにして作られており、平安中期ごろ韻学の世界で作られ、声調を整えるのに用いられたが、また手習いの手本や字母表および物の順序を示すのにも使われた。とあります。澄翔さんのところで知ったとおりでした。
それにしても澄翔さんの偈の訳はみごとですね。
さらに、語誌に、
俗説に、弘法大師の作というが、「いろは歌」に、ア・ヤ行の「エ」の区別のないことなどから現在は否定されている。ともありました。
文字をならべかえて別の語句をつくるのを、アナグラムというそうです。
日国.NETは日本国語大辞典第二版のオフィシャルサイトですが、
ここの「小林祥次郎の日本のことば遊び」第9回 いろは歌のアナグラムにくわしくかかれています。
この日本国語大辞典は、百科事典のようです。
ことばをしらべるときに、ひくのがたのしみな辞典というのはそうそうありません。
古典からの例がじつに豊富に掲載されています。
出典が載っているのがよいのです。
しりたかったことを解決するため、というよりは、
むしろそこから疑問が湧き出てきて、
つぎからつぎへとたどってついに深みにはまる、
ということを楽しめる辞典です。
こういった、問題意識や探究心を継起する書物がすきです。
そういう意味では白川静先生の『字統』や『字通』などもそうですね。
私は『常用字解』を鞄に入れて、暇なときに「読んで」 います。
さきの日本国語大辞典には、いろはの四七にちなんだことばもあります。
「伊呂波塚」は、赤穂義士四七人の墓を「いろは」四七文字にかけていう呼び名。
江戸時代の「いろは茶屋」は、47軒ならんでいたからだそうですし、
江戸のいろは組町火消しは、い組、ろ組など47組に分けたところからきたそうです。
いろは歌を、「イ、ロ、ハ、ニ、ホ、ヘ、ト」というように
文の意味を考えずに、文字の音だけを追う読み方は、
「いろは読み」というそうです。
「いろは歌」をいま、息子に言わせてみたところ、やはり「いろは読み」なのですが、
なぜか「けふ」と「ゑひもせす」だけは、「きょう」、「えいもせず」と読んでいます。
そういえば、私も覚えたときは、ごちゃごちゃだったような気がします。
「いろは」は、古来、順番づけにも用いられています。
a. ... b. ... c. ...
とおなじです。辞典をみると、
いろは順、いろは番付、いろは引き、いろは符牒、いろは船など、
その順番づけに用いられた例です。
いろはガルタ、いろは短歌、いろは文字鎖、いろは回しなど、
遊びにも用いられています。
「いろは」というのは、手習いのはじめに教わるもの、ということから、
初心者用、手始め、というような意味にもつかわれます。
「いろはのいの字も~」というようないいまわしってありますよね。
習字のいっとう最初は、むかしから「いろは」からだったのです。
澄翔さんの「いろは歌」のお手本、
のびのびしていてきもちよいです。
こういうお手本でまなべる子供たちはしあわせです。
中国の「いろはうた」にあたるのは、
千字文(せんじもん)でしょうか。
松岡正剛の千夜千冊に、岩波文庫の『千字文』(小川環樹・木田章義注解)の書評がありますが、
私もこの岩波文庫にはとてもお世話になっています。
![]() | 千字文(岩波文庫) 小川環樹注解・木田章義注解 |
千字文は古来、習字の手本とされてきました。
文字(漢字)をならうにはとてもよい手本になります。
いずれ、この千字文について書いてみたいとおもっています。
書作展に顔写真
2005年2月15日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)
九州・山口・沖縄代表書作家展の会場風景を
sumi-mojiさんが公開されていらっしゃいました。
その写真を拝見したところ、ひとりあたり作品が2点ほどあり、
作品の右に、作者の顔写真があるのがわかります。
写真のしたには、作者の紹介、作品のよこには作品の釈文らしき解説がついています。
会を主催されている諸先生方の展示のようですから、
どの会がどのような書を書かれるのかがわかりますし、
作品もバラエティに富んでいることでしょう。
書は人なりといいます。
書画は作品がすべてです。
作品をゆっくり楽しむというものではないのかもしれませんが、
それにしても
写真やコメントがあるのとないのとでは、情報量に雲泥の差があります。
書作展というと、
作品だけをならべてあるものを想像してしまいます。
しらなかったのは私だけかもしれませんが、
さまざまな視点でものをみることの大切さを痛感しました。
代表作家展という性格上、作品の鑑賞だけが目的ではありません。
その先生を知る、その先生の現在の目指している作風を知る、
ということも目的のひとつになります。
書をなさらないかたがご覧になられても、これなら納得しやすいのではないでしょうか。
秋華洞さんの日本美術そうだったのか通信、「妻よ、違うのだ」に、
人はその人の物語を含めて作品を買うのである。
その絵はその絵だけで成り立つのでなく、その人の遺した作品や生き方の軌跡のなかで浮かび上がる一作品なのである。とあります。
書だけを鑑賞しているわけではないのです。
「ひと」がうかびあがってくれば、その作品が身近になります。
感動した作品をつくったひとをしりたいというのは人情です。
心酔するひとの作品を観たい、というのも同じことでしょう。
もっとも、書家の書に「物語」をもとめるのはむずかしそうですけれども。
ちなみに秋華洞さんは
本当は、その線を選ぶ理由、その筆致を選ぶ理由、の厳しさ、あるいはその作者なりの気迫のようなものがこもっていない限り、感動はないのではないか。と、思います。ともおっしゃっています。
書籍で、やはり顔写真と作者の略歴とコメントつきのものをみたことがありましたが、
実物でそれを実現しているのをみるのははじめてでした。
親しみをもってその作品を観ることができそうな気がします。
その先生の作品をさらにゆっくり見たいと思えたらすばらしいことです。
自分の目で真剣にもの(ほんもの)をみるということ
2005年2月 6日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)
xiyueさんの、20年間ずっとともにに、とてもすてきな話がありました。
「本物を十分堪能しなさい」
「本物見た直後に何故偽物(葉書等)買うの?」
これを読まれたtianpianさんは、鳴鶴先生の話(柴田墨城) で、
「本物を見るということ、そして本物の見方のようなものを感じました。」とおっしゃっていますが、私も同感です。
そのtianpianさんのページには、日下部鳴鶴先生の話が載っています。
矢張努力して写した方が余程修養になつたと今更思うて居る。其物が手元にあるとなかなか写す気持にならぬ。借りて居ると早く返さねばならぬと懸命に勉強するから非常な薬になる。一期一会なのですね。
そのときになんとしてでも、という覚悟がないといけないということです。
古人は、法帖の一行でもあれば開眼したそうです。
私なども、つい図録を買ってしまいます。
展覧会の展示会場には、わきに解説がかならず付いていますが、
それらを読んでいると、つい、分かった気になってしまい、
だいじなものを見のがしてしまうような気がするのです。
なので展示会場ではそれらを読むことはできるだけ控えるようにしています。
先入観なしに、本物をみたい。
すこしでもじっくりと、本物をみたい。
そのときの印象をだいじにしたい。
そういう意味では、事前の学習もいらないようですが、
やはり背景などの知識は最低限ないと、
その「もの」をみる見方も浅いものになりがちです。
解説などは、図録を買えば、あとで読めます。
でも、たしかに図録をあとで読み返すことはすくないのです。
買ったことで安心してしまうのですね。
日下部先生のおっしゃったことはまさにずぼしでした。
自分のほんとうにこころを打つ本物をしっかりと「みる」こと。
その大切さを、この二つの記事はあらためて教えてくれました。
余裕
2005年1月24日 kodo | 個別ページ | コメント(5) | トラックバック(0)
書を書き終えた時に疲れていたらその書は良くないというxiyueさんの先生のことば、なるほどとおもいます。 私もそうおもいます。
私の場合は、作品を書こうというと、つい殺気立ち気負ってしまうので、
疲れたあと、一服して書いた書のほうが、おちついていてよい場合があります。
欲がでるとだめですね。
背伸びをすると、作品が余裕がないものになります。
いま持っている力で、あり余るくらいのあるものを、
こころをこめて書きた作品が、
大家のような生きた作品となるのでしょう。
大きな紙に行書(?)を書いていたそうだけど、中国人の先生から見たら前衛書にしか見えなかったとか。
大いにありうるようにおもいます。
笑うに笑えなかったりします。
どうしてそうなってしまったのでしょう。
日本人的な現象なのかもしれません。
なにをまなんでいるのかわからないような作品が多いのです。
古典のまなびかたからして、「形」を重視していないように感じます。
意は形によってあらわれるものです。
武道にも型はあります。
やはり「道」のひとつであって、
書法をまなんでいるという意識が低いのでしょうか。
そういえば、正座して書くことが最近少なくなりました。
教室でも椅子にすわっています。
食事のときも椅子なのです。
やはり落ち着かなくて、
椅子の上にあぐらをかいたりしてしまいます。
息子も椅子に正座してしまって、妻におこられたりしています(^^;
座敷がやっぱりおちつきますね。
p.s.
ところで、xiyueさんのブログ「遊於藝」(http://xiyue.exblog.jp)ですが、
エキサイトにログインしないとコメントがみれないし、コメントできないようです。
ぜひコメントしたい!とおもうことがなんどかありました。
設定を変えていただけるとうれしくおもいます。m(_ _)m
昭仁寺碑
2005年1月24日 kodo | 個別ページ | コメント(3) | トラックバック(0)
tianpianさんが、菘翁臨書帖二種を紹介されていらっしゃいます。
ありがとうございます。
そこに、菘翁の臨書した昭仁寺碑があります。
書道博物館に昭仁寺碑の拓本があるようなので、
そのうち観にいってみようとおもいます。
書道博物館のWebページに、こんな紹介がありました。
昭仁寺碑(旧拓) 唐・貞観4年(630)
昭仁寺は、唐太宗の命によって、唐王朝建国のための戦いで戦死した兵士を供養するために中国各地に建てられた寺の一つで、この碑には昭仁寺建立の経緯が刻されている。
三千字余りの碑文は朱子奢の作だが、書者は不明。古来多くの説が出ているが、中村不折は虞世南・孔子廟堂碑に似た書風であることから、虞世南の書とする説を支持している。
唐の太宗は、建国の際に戦禍をうけた地にそれぞれ一寺を建立しました。
そして義勇の戦没者の供養のために、
虞世南や顔師古(顔真卿の祖先)に碑銘をつくらせたそうなのです。
昭仁寺碑や等慈寺碑はその一つです。
昭仁寺碑はふるくから虞世南の書とする説が多いのですが、
楊守敬は「その格度気韻は世南に遠く及ばない」と評しているそうですし、
王澍も、虞世南の書ではなく、虞世南をよく学んだ人の手になるものであろうとしているようです。
以下は『書道全集 7』(二玄社)
筆者は宋以来、一般に虞世南と信ぜられ、あるいは欧陽通、王知敬に比定する説も行われた。しかし後の両者は年代的にややおくれ、虞世南は貞観四年にはすでに七十三歳であったから、果してこの大作に耐ええたかどうか疑問である。もちろん波法においてはいくらか似通ったところもあるが、風格や気韻においてはとうてい虞世南の敵ではなく、また用筆のかたすぎる点においてもその変化百出たるには及ばないと評される。(日比野丈夫)
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白川静漢字暦二〇〇五
2005年1月21日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)
昨日、妻に「ロッキングオンジャパン」を買ってくるようにたのまれたので、
しごと帰りに書店にいきました。
で、妻に感謝。
白川静漢字暦二〇〇五 2005カレンダー
白川静
出版社 平凡社
発売日 200410上旬
価格 ¥ 1,260(¥ 1,200)
ISBN 4582645135
を見つけました。
さっそく購入してみました。
カレンダーの数字の部分は、漢数字になっています。
カレンダーの上部には、毎月テーマをきめて、8~10ほどの漢字の説明があります。
たとえば一月は「口(サイ)」がテーマになっていて、
それに関連する、「史、使、事、右、左、尋、兄、祝」の字の簡単な説明がついています。
大きさは、A3です。ひらくとA2になります。
下手なイラストなどを載せずに、甲骨文が載っているのがよいですし、
関連する字が1ページひと月にまとまっているのもおもしろいです。
どちらかというと、
実用というよりは、白川ファン向けのカレンダーかな、とおもいます。
雁塔聖教序の法帖を買いました。
2005年1月19日 kodo | 個別ページ | コメント(5) | トラックバック(0)
先日、教室にいったときに書いている方がいらっしゃいました。
どこにでもあったはずなのに、
いざみようとおもうと、じつは自分では持っていないのに気づきます。
買ったのは、二玄社の「中国法書選 34 雁塔聖教序」です。
雁塔聖教序は、褚遂良の楷書のなかでは、最晩年のころの作品です。
なんともいえない艶やかで気宇の大きな書です。
真蹟と法帖
2005年1月18日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
「漢晋人の真蹟の価値とその学び方(埜本白雲)」(by tianpianさん)を読みました。
筆意を知るには真蹟に若くはないのですが、
風韻・古意を知るには、法帖のほうがよいのかもしれません。
いえ、これは印刷物で学ぶ場合の話です。
学書には便利な世の中なのですが、
真を得たければ、写真を本物と勘違いしてはいけません。
本物の「真蹟」ならば、事情はちがいます。
真蹟は生きているからです。
本物を常に身近に見ることができるひとは、
本物の風格を自然に身につけるかもしれません。
智永の千字文の真蹟を東京国立博物館で目にしたことがありました。
それまでの印象はがらっと変わりました。
写真ではだめだ。
こころからそうおもいました。
写真では用筆はわかりますが、
もっとも大事なものが不足しているのです。
真蹟にしろ法帖にしろ、印刷物ではない本物が欲しい。
書の厚み・重みが違うのです。
これは決定的です。
これが自分の書の厚み・重みになってしまうようにおもいます。
本物の法帖で学びたい。
現代の書が妙に薄っぺらなのも、こんなところに原因があるのかもしれません。
鍾繇や羲之や献之の真蹟をみることができないのが残念です。
それを憧憬するしかない。
「私の家には書道界に誇るべき書物が一部ある。それは敦煌発掘の漢晋時代真蹟の字書である。」
とありますが、その字書というのはどのようなものでしょう。
それにしても、古い時代のものを、たとえ字書に頼りながらであっても
現代の私たちが読むことができるというのが驚異です。
字書ほど安いものはない、と本当におもいます。
それが編纂されるまでの道のりをおもいます。
徳島県立文学書道館
2005年1月16日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
徳島県立文学書道館というのがあるそうです。
文学と書道。
文学者の特別展示などだと、たしかに書軸など飾ってあったりしますから、
そういったものを中心に集めてあるのかとおもいましたが、
どうやらいわゆる「書家」を含むようです。
文人というのとはちょっとちがうのかもしれません。
画家その他をもふくんでしまうと、美術館?なのでしょうか。
幕末の三筆といわれる貫名菘翁 (ぬきな すうおう)や
明治の中林梧竹 (なかばやし ごちく)は、徳島出身だったのですね。
小坂奇石は、私が学生のころに亡くなられたのをおぼえています。
当時から私的には好きな作家でした。
施設案内には、
とあります。文学は心を言葉や文字にして伝え,書道は言葉や文字を形にして心を浮かびあげます。ここは,言葉が溢れる「言の葉(ことのは)ミュージアム」。徳島ゆかりの文学と書が織りなす豊かな知の世界が凝縮されています。
館では,徳島ゆかりの文学・書道に関する作品や資料の収集・保存や調査研究,展示紹介だけでなく,文学・書道にふれ,学び,親しむ講座や実習などの開催,生涯学習や文化活動の場を提供するなど,徳島の多彩な文化を創造・発信する拠点として事業を展開していきます。
文学と書道をあわせたは、全国にはじめての施設だそうです。
第27回 國際書画展
2005年1月14日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)

玉木浩堂の作品(641kb)は第一会場(東京都美術館)にあります。
会場がわかれてしまっているのがつらいところです。
第二会場は、浅草の二天門の前にあります。7階です。
東京都美術館(第一会場)には、
顧問、参事、三役、常任理事、監事、参与出品
ならびに、理事・評議員・会員出品のうち、苗字がタ行からワ行まで。
都立産業貿易センター台東館(第二会場)には、
理事・評議員・会員出品のうち、苗字がア行からサ行まで。
という展示になっています。
第一会場には、師小野田雪堂、中村恒堂(knob)があります。
會田芝鴻さんが、評議員奨励賞を受賞しました。
おめでとう。
(作品は第二会場)
昨日、第二会場の搬入に行ってきました。
書と画とあります。画はインパクトのあるものが多いので、
自然で、しかも起伏があるように、いかに配置するかは悩みどころですが、
ああだこうだとかんがえるのはとても楽しいものです。
入場料は、500円です。
東京展 第1会場 東京都美術館 TEL03-3823-6921
平成17年1月11日(火)〜1月16日(日)
午前9:00〜午後5:00(入場は4:30まで)
最終日は午後2:00まで(入場は1:30まで)
第2会場 都立産業貿易センター浜台東館 TEL03-3844-6151
平成17年1月14日(金)〜1月17日(月)
午前10:00〜午後5:00
最終日は午後2:00まで
以後、関西展・中部展と巡回します。
席書大会
2005年1月 4日 kodo | 個別ページ | コメント(4) | トラックバック(0)
かおりちゃんねるというところで、
席書大会という記事をよみました。
席書大会というのは、はじめて聞きました。
書道の社中での企画でしょうか。
市の企画だったら面白いですね。
それにしても、お正月に、体育館で一斉にやる、
という緊張感がたのしそうです。
自分で選ぶ、というのもよいですね~。
荷物は少ない方が高く飛べます。
2005年1月 3日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
12色あれば 全ての色は表現できます。 概製の余計な色は 可能性を狭めてしまうだけです。 荷物は少ない方が 高く飛べます。しょうこさんのCocco名(迷)言集というページにある、 「12色のクレヨン」です。 Coccoは聴かないのですが、ほんと、そのとおりですよね。 私にとって、とてもだいじなことばになりました。 このしょうこさんのページは、 現在は閉鎖されています。とっても残念です。 でも、そのページの作者のしょうこさんは、最後に日記に、
とりあえず、何かが動き出してるような気がします。 それに置いていかれないように 今度こそ置いてきぼりを食らわないようにしたいと想います。,,,と書いていました。 がんばれ、しょうこさん。こころから応援しています。
この名(迷)言集に、「絵」ということばがありました。
「人生に下書き無し」なので 私は絵を描く時も下書きをしません。 一度描いた下書きを同じようになぞって 描いている時間はないのです。 描くべきものが明確に見えているので なるべく早くそれを形にするように努めます。 私は全てにおいてやり直しがきかないものを好むので 実際よくしくじります。 でも幸せなことにその失敗から新しい形が生まれて 絵はよりパワーアップします。 小学校の先生が言っていました。 「絵に間違いは無い。」 描けないことはあっても間違いはありません。 中学校の先生はこう言いました。 「覚えたいことはペンで書きなさい。」 私は自分の発言と想いと行為に責任を果たす為に 手紙を書く時はいつもやり直しのきかないペンを用います。 間違いは間違いとして、ちゃんと紙の上に残るぐらいが きっと正しいのです。私は書をやりますが、 展覧会にはまずほとんど行きません。 一期一会の書ではなくて、 やりなおし、やりなおしの書ばかりだからです。 創意のないお手本の模造品ばかりだからです。 一枚一枚だいじに漉いた紙、紙が貴重な昔はいつでも本番でした。 草稿くらいはあったかもしれませんが、 おんなじ紙でおんなじものを 何十枚も何百枚も書くなんてことがあるはずがない。
後があるとおもうからだめなんだとおもいます。
手習い、目習いは質と量がたいせつです。
量のない質はありえませんし、
質のない量も無意味です。
その質と量に
縁(機会)があってはじめて身になります。
ひとが問われるということなのです。
品と風格があって美しい書がすきです。
そういう人生を歩みたい。
そんなことを願って、
書をたのしんでいます。
みずから獲得せよ
2005年1月 2日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
先祖から承け継いだ物でも、 それをおまえの真の所有にするには、おまえの力で獲得しなければならぬ。 役に立てることができないものは重荷だ。 現在生み出したものでなければ、現在の用に立たぬ。『ファウスト(悲劇第一部)』(ゲーテ/著,手塚富雄/訳,中央公論新社)
自分で見出しみずから獲得しなければならないのです。
そうしなければ、なにものも自分のものにはならないのです。
先人の歩んだ道を自分も辿ってみなければなりません。
だからこその臨書なのです。
「役に立てることができないものは重荷」です。
自分で獲得したものでなければ役には立ちません。
むしろ空真似によって自分を見失う危険の方が大きいでしょう。
学んでいるものや、感銘を受けた作品の影響が、
すぐに自分の書に出てしまいます。
しかしそれは決して体得しているものではありません。
自分がないから影響を受けやすいのかもしれません。
自分のものになっていないものが作品に出ると空虚なだけです。
書は技術だけではありません。
習ってしまったがために自分の書が書けなくなっている人が多いのです。
知識は煩悩です。知識は、あらゆるものを束縛します。
無知を知るための知識だといいます。
だからこそ、本物を裸の心の眼で観なければなりません。
自ら獲得し、真に「知る」必要があるのです。
知れば知るほど、道の遠いことを思わずにはいられません。
しかし、その険しい道を歩むことに心からよろこびを感じます。
自分の書へと昇華し脱皮するしか方法は残されていません。
自分がいまほんとうにしなければならないことは何か。
いったい自分はいまどこにいるのか。
常にそれを心に抱きながら、信じる道を歩んで行きたい。
遠回りを恐れてはいけない。
きっと
私にしかできないことがある
私にしか書けない書があるにちがいないと信じています。
書き初め
2005年1月 2日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
子供と書き初めをしました。
息子は「お正月」と書きました。
お世辞にもうまいとはいえませんが、
とても気持ちがよい字です。
新年おめでとうございます。
2005年1月 1日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
つい先ほど、このブログを立ち上げました。
どうぞよろしくお願いいたします。
初心にかえって学ぶ、というのを今年の抱負にします。
たとえ下手であっても、
きちんと自信をもって書けるようになりたいとおもいます。
それには、いままでのように好き勝手だけではなく、
初心にかえって学習しなおさないといけないと痛切に感じています。
毎日筆をもつのは当然ですが、
毎週の教室にも顔を出し、
先生にお会いするときには恥ずかしくとも書いたものを必ず持っていく。
毎月の課題をきちんとこなす。
こういったあたりまえのことをしっかりやりたいと思います。
鷦鷯巣於深林不過一枝
2004年12月24日 kodo | 個別ページ | コメント(4) | トラックバック(0)
鷦鷯は深林に巣くふも一枝に過ぎず
偃鼠は河に飲むも腹を満たすに過ぎず
(荘子逍遥遊より)
みそさざいは、林の奥深くに巣をつくるけれども、
必要とするのは、たった一本の枝に過ぎない。
かわうそは黄河の水を飲むけれども、
お腹がたくさんになるだけの水しか飲むことが出来ない。
あれもこれもと欲張っても、じぶんに必要なのは「一枝」だけである、
そのことを決してわすれずにいたいものです。
「一枝堂」は明の徐謂が、東城郡学のちかくの借家でひらいた塾の名です。
彼は入り婿した先の愛する妻が死んだあと、何一つ持ち出さずに家をでて、
塾をひらいて生活の足しとしつつ科挙の勉強をつづけたのです。
吉田兼好はつれづれ草のなかで、
されば、一生の中、むねとあらまほしからん事のうちに、いづれか勝ると、よく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。(中略)いづかたをも捨てじと心に取り持ちては、一事をも成るべからず。また、
一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るゝをも傷むべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一(いつ)の大事成るべからず。ともいっています。
「人の嘲りをも恥づべからず」です。
恥ずかしいとか思っていたらなにもできません。
人に恥ずかしいではなくて、意を決してできない自分が恥ずかしい。
一歩を踏み出さなくてははじまらない。
道が外への接触を求める人間の志向によって開かれるものとすれば、それは他から与えられるものではない。その閉ざされた世界から脱出するために、みずから開くものである。道をすでに在るものと考えるのは、のちの時代の人の感覚にすぎない。人はその保護霊によって守られる一定の生活圏をもつ。その生活圏を外に開くことは、ときには死の危機を招くことをも意味する。道は識られざる霊的な外界、自然をも含むその世界への、人間の挑戦によって開かれるのである。白川静「遊字論」より
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