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臨 十七帖
2008年6月22日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
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郗司馬帖は、餘清斎帖、
逸民帖は、三井本を臨書しました。
左の写真の法帖は、餘清斎帖です。
私は蘭亭序は清雅堂の張金界奴本を好んで学んでいますが、
餘清斎帖は、張金界奴本蘭亭序を所収しています。
藤原楚水によると、餘清斎帖はみな木刻ということです。
餘清斎帖には、
1.書学院本
2.書道博物館本
とがあり、私は深澤芝仙先生よりお借りした書学院出版のものを学習しています。
書学院本は、陽守敬から譲り受けた山本竟山が、日下部鳴鶴に譲り、鳴鶴の没後に比田井天来の書学院の蔵に入ったもの。中村不折の書道博物館に蔵したのものが、書道博物館本です。
墨について(3) - 墨の保存法
2008年3月14日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
三、墨の保存法
墨は室内に於て放置するときには、平均五%の水分を含有するという。
墨は湿気を大変嫌う。多量の水分を吸収して湿気を帯びると、表面に黴が生えて膠質が変敗し墨色を損する。伸び、光沢、膠力共に減退してしまう。膠の劣化を防ぐためにも、常に乾燥状態に維持することが大切であり、桐箱に入れて保存するのも、できるかぎり吸湿を防ぐ為にほかならない。
墨は乾燥するのが良いといっても、日光の直射に曝してはならない。火気に当てる事もよくない。膠質を変じ、崩潰する事があるからである。乾燥も一定度を越えると、亀裂を生じ遂には挫折するに至る。殊に乾湿の変化が急激な場合は一層著しく、保存の佳くない古墨に多数の亀裂を見るのは此の為である。
中国製の墨はいずれも甚だ割れ易いようである。膠の粘着力が弱いためであるらしい。墨を摺った後、箱に入れて大切に保存しておいても、いつの間にか割れているということもある。取り扱いには十分に留意する必要がある。
以上、墨の性質とその取扱に就いて記述した。
平成四年九月二十九日。
(日本大学書道研究会発行『書心』第27号)
墨について(1) - 墨とは何か
2008年3月14日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)
一.墨とは何か
墨は炭素と膠を合わせたものである。墨は煤煙と呼ばれる炭素の粉末を、膠の溶液で練り、一定の形としたものである。煤煙は顔料の一種で、水には溶けない。ただし、膠が水に溶けるので、煤煙の粒子は膠に包まれた状態で安定に分散する。
墨の目的は、紙・布・木材等に、文字や絵画などを、黒い色で鮮明に永い間消えぬ様に塗るつけることであるが、その場合、膠は、①「炭素を布や紙の繊維に接着させること」と、②「墨液を平均させてむらなくする役」を果たす。墨液の中では、炭素の微粒が膠の被膜に包まれて無数に浮遊している状態となっている。
墨(煤煙、炭素)の粒子は球状をしている。墨汁を顕微鏡で見ると、高度に分散している微粒子は、いつでも活発に不規則の運動(ブラウン運動)をしている。これが活性カーボン、生きた粒子である。この様な粒子を多く含むほど墨は生きているという。大きい凝集状態をしている粒子は、ほとんど運動せずに沈みやすい。これが不活性カーボン、死んだ粒子である。
死んだ粒子、大きい凝集をしている粒子は如何なる時に生じるかというと、①墨の膠が老劣化して、墨の粒子を包んで安定したコロイド状態を維持する作用が少ない場合(いわゆる古墨)と、②墨の摺り方が粗雑だったり、鋒鋩の不規則で粗い硯を用いた場合、③宿墨や滞墨をした場合、の三つが考えられる。
にじみは、画箋紙の場合墨の種類の如何にかかわらず、筆に墨の量を多く含ませると起こるのであるが、古い墨の場合は、筆の跡とにじみの色の濃淡の諧調がはっきりして、にじみの末端がぼかしたように薄くなる。これは膠が年をとっているので、繊維の中に炭素を滑りよく誘導する力が弱く、筆の通った跡の部分から非常に微細な炭素しか外へ運んで行けないからである。従って新しい墨ほどその諧調の差が少なく、筆の跡とにじみの色の濃さが同じであり、その末端がギザギザとなって止まる。
墨は紙に対して横ににじむだけではなく、縦へ紙の内部にも浸透する。
墨色の優劣は墨の粒子が紙や布の表層より内層に向かって、どの程度まで浸透し、微細構造組織のどの部分まで浸透するかによって決定される。できるかぎり組織の深部にまで浸透する墨が、墨色に深みがあり、冴えて見える。墨の粒子が均一に分散していて、その大きさが小さければ小さいほど、このような性質を表す。
といって、余りに拡散が早過ぎる時には、「にじみ」の先端は不規則な凸凹の形状になる。「にじみ」の先端が名状し難い滑らかな曲線をなすのでなければ、芸術的な作品を書くことは出来ぬであろうが、この様な「にじみ」を生ずるのは、膠の適度な力によるものであって、膠の力が弱過ぎる墨では微細な粒子さえ運ぶことが出来ぬため滑らかな曲線状をなす「にじみ」は得られず、墨の粒子が大きい場合にもまた同様である。大きい墨の粒子は拡散する速さが緩慢になるのは当然であって、そのために、筆跡を明瞭にする効果を表すが、すべて大きな粒子であったら「にじみ」を絶妙なものにする作用は表し得ない。
普通墨の生命は三、四百年といわれている。墨にも寿命がある。植村和堂の「文房具辞典」によると、膠の寿命は百年位で、二、三十年から七、八十年位の間が最も使いよい、という。寿命の程は、膠の質や墨の保存状態等により可成異なる事と思うので何とも云えぬが、膠の力がかなり枯れて弱まっていながら、それでもまだ充分に力が残っている位が工合良いらしい。
古墨は筆跡を明瞭にするが、粒子が紙の表層にとどまりやすく、新しい墨は紙の内部にも浸透しやすいが、その代わり筆跡は潰れ、にじみは凸凹となってしまう。
そこで古墨を使った場合には、紙も古い枯れたものを使う必要がある。紙は枯れると繊維が老化し弱まってくるので、墨を表層にとどめず、内部にまで浸透させるからである。古墨の弱点を補うことができ、古墨を生かすことができる。新しい紙に古墨を使う事程もったいないことはない。
墨が非常に湿気に弱いのは、含まれている膠が水分を含むと直ちに腐敗をおこすという性質による。これは膠が有機質のためで、特に湿気に浸されなくとも、年数が経つと生物のように次第に年をとって、脆くなる。膠は蛋白質がゼラチン状に固形したものである。それゆえ墨を摺って宿墨すると、腐敗し臭いがおこり、磨り口も少し悪臭がする。宿墨とは摺ってから一晩経た墨の事であるが、摺った墨は膠が腐敗し易い為、粒子は殆ど死んだ状態となってしまう。従って生きた作品は書けない事となる。これは古墨の状態とは明らかに異なる。古い墨は膠が腐っている訳ではない。膠の力が弱まっているだけである。しかし、大きな粒子が多い点では同じなので、墨色はともかくその現れる現象面は大変似ていると云える。
墨の良否は、固いとか軽いとか、早く濃くなるとかいう事で決定されるのではなく、発墨の如何による。発墨は次の諸項が備わっていなければならない。即ち、①墨質の良、②硯石の佳、③磨法の適、④硯水の清。次に、磨法、即ち墨の摺り方に就いて取り上げる。
「墨について(2)」に続く。
石鼓文
2007年8月10日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
せっこぶん
大きな石碑をイメージしてはいけません。
大きさは一定していませんが、
意外とちいさな、だいたい60センチ四方の石です。
太鼓に似ているので、石鼓といいます。
なぜか各地を転々としましたが、
現在は10鼓そろって北京の故宮博物院に収蔵されています。
出土地は西周の故地、周の宣王の時代のものという説が一般的です。
内容は、狩猟のことを詠じた四言詩。
詩経と同一または類似した句が部分的にあります。
書体は、籒文(ちゅうぶん)。
籒文とは、大篆です。
秦の始皇帝期に出来上がった小篆よりも、600年くらい古い書体です。
呉昌碩が臨習したのが、この石鼓文です。

東晋 王志 一日無申帖
2005年7月 1日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
徐希秀は、王志を「書聖」と称していたそうです。
通常は、書聖といえば、羲之のことを指します。
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唐太宗「温泉銘」
2005年5月 3日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
パリにあるフランス国立図書館では、
所蔵しているコレクションを写真で公開しています。

http://expositions.bnf.fr/
この写真の「巌」という字は異体字でしょうか。
太宗は異体字を好んで書いていたようです。
この温泉銘にも多くの異体字があります。明らかな間違いもあるようです。
[ 唐太宗「温泉銘」 ] の続きを読む
上田桑鳩『臨書研究(上・下)』
2005年3月 7日 kodo | 個別ページ | コメント(5) | トラックバック(0)

興文社。昭和15年刊。
桑鳩氏は、天来翁の臨書を、
それは常に臨書は一家の見識を以てすべしと主張した如く、冩實的であつたが奴書ではなかつた。手本の缺陥を補ひ、手本よりも優れた臨書を創作せんことを旨とした。彼の創作はそこから生れたと云ふことが出来る。と、第六章「古人の臨書に対する研究批判」の「比田井天来」の項において書いています。この項で、天来翁の「書の熟と生の問題」について、桑鳩氏は以下のように述べています。すこし抜き出してみます。(行あけは、中略。太字はkodo)
前者の生書とは個性そのままの現れたものを指し、後者の熟書とは習ひ込んで熟練し、洗練と習気によって観念的に達者に書いて個性の薄らいだ書を指すのである。書を習ふのには熟達は必要であるが、熟達と同時に自己の本質の顕現をすることでなくてはならないのであるから、その為めには自己の持つて居る生粋の生なものを失はないで出さなければならない。
然るに書を習はない人の書は野性そのままで生書である。それを洗練して格に入る為めに練習をしなければならない。さうすると自己の獨自性が薄ぐ。故にこの洗練されて本格になつて後に獨自性を出す為めに、洗練した中に自己の生のものを出す必要がある。さうすると澄んだ磨かれた中に味のあるものが出来る。
その味は筆者の個性から生まれるものではあるが、書を習はない前に出たものと、一旦習ひ込んでから出るものとは質が同じであつても野性と精選されたものとの差がある。
学書者はこの理を弁へて一旦は鍛錬して熟するが、更にその中に生なものを出すべきであつて、書は熟後の生でなければならぬことを主張した。
臨書方法は最初は極めて忠実精細に写実し、用筆法を合はせつつ筆意を得、手本の感じに合する様に習ふ方針であるが、単なる悪写実ではなくて、運筆の活動と、気合の合ふことを特に厳重にしたのであつた。
書を専門的に習ふ者には最初に広く学ばせて、一法帖を深く習つてその型に嵌めてしまふことを厳重に禁じたことは、他の一般の師匠とは異なつて居たのであります。
諸々の法帖を循環的に習ふことによつて手に習気の付くことを防ぎ、一つの型に嵌らないで上達し、且つ広く学ぶことによつて、多角型的に一つの法帖を見ることを奨励したのであります。
それで或は傑出したものとか、一つの型に於て完成したと云ふ者はないが、大きい未完成の者が多数養成されたのであります。
彼自身が誇るべき偉大なる未完成であつたと同様に、門下生も皆未完成のままに育てられたのであるが、そこに量り知れぬ将来性があるのであります。
天来翁を「偉大なる未完成」と言い切るあたり、じつに痛快です。
教育というものの要諦は、
型に嵌めることではなく、
将来性を引き出す、というところにあるのだとおもうのです。
いやしくも芸術の一分野たる書をおしえるのであればなおさらです。
習ったがために、自分の書が書けなくなってしまうひとのなんと多いことか。
天来翁が「習気」をとことん嫌ったのは、
天来翁が生粋の芸術家だったからです。
「生書」を岡本太郎氏に言わせると「爆発」ということになるでしょう。
偉大なる芸術家というのは、
まさしく桑鳩翁の指摘するとおり、偉大なる未完成なのです。
日下部鳴鶴『熊野遊草 禹城遊草 芳渓雑題十首』
2005年3月 7日 kodo | 個別ページ | コメント(3) | トラックバック(0)


『和漢名家 習字本大成 第八巻』です。
第四回配本とあります。
昭和8年に平凡社から出ています。
このように、自作の詩を書き溜めておくと、
いつ誰に揮毫するにも重宝するだろうとおもいます。
その書は、格の高いすばらしいものです。
東晋 王羲之 奉橘帖(何如帖)
2005年2月19日 kodo | 個別ページ | コメント(7) | トラックバック(0)
王羲之は書聖といわれ、その書は古来手本として珍重されてきました。
そのため多くの模本が作られたのですが、
この奉橘帖(何如帖)も、搨も本のひとつです。

王羲之の書は、残されているもののほとんどは、手紙の書です。
この奉橘帖も、手紙です。実用の書であり、相手があったのです。
芸術を云々する以前のことであったわけです。
書に実用書と芸術書の区別はありません。
相手を思いながら、手紙を書くことは、
そのこと自体がとてもうつくしいことです。
相手のよろこぶ姿をおもいながら筆をもちたいものです。
xiyueさんの送る言葉に、「受け取る側が理解出来る言葉と文字で簡潔にまとめる」というくだりがありますが、相手に伝えたいことがある、伝えたいきもちがある、というのが大事なのだとおもいます。
「私はたとえ汚れてしまおうと、大事にしまっておかれるよりは飾ってほしいのです。」というxiyueさんのきもち。
澄翔さんの
「めでたいッ!おめでとーーーっ☆」というきもちで書かれた命名書、「喜んでもらえるとうれしいな。。。」というきもち。
うつくしいとおもいます。
北魏 寧将軍元君墓誌銘(元倪墓誌)
2005年1月26日 kodo | 個別ページ | コメント(2) | トラックバック(0)
寧将軍元君墓誌銘は、書道全集 第二巻(平凡社)には、
「元倪墓誌(げんげいぼし)」として掲載されています。
それによると、22字×19行に正楷で刻されているそうです。
墓誌銘はもと碑形が多かったものが、北魏では定形を得たようです。

明・王鐸 憶過中條語
2005年1月26日 kodo | 個別ページ | コメント(5) | トラックバック(0)
王鐸の流れるような筆致と呼吸は見事です。
前の字からの意をしっかり継いで受けているので、
そのながれはまるで滝のようです。
東京国立博物館ではじめて王鐸をみたときは、ショックでした。
しばらく立ちすくんでしまいました。
これはたまらないと、当時は毎朝ジョギングをしたりしました。
とても人間を感じる書です。
王鐸は、楷書は鍾繇・顔真卿、行草は王羲之・王献之を学んでいます。
米芾のほかは五代以降の書を学ばなかったといわれています。
たしかに米芾の香りもありますが、消化しきっていますね。
王鐸は、
「書の習いはじめは帖どおりに書きがたく、おわりは帖より脱しがたし」
といっています。
人の求めには、淳化閣帖の一段を背臨するのを常としたそうです。
落款に「己卯洪洞王鐸」とあります。
崇禎十二年(1639)、王鐸48歳の作。
「洪洞」は山西省の県名。

東晋・王羲之 奉橘帖(平安帖)
2005年1月26日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
何如帖、奉橘帖とならぶ、奉橘三帖のうちのひとつ。
現在は台北の故宮博物院にあるそうです。
写真をみるとわかりますが、
現在平安帖は、27字のうち6字を欠損していますが、
「宝晋斎帖」などの刻帖をみることによって
おぎなうことができます。

張瑞図(ちょうずいと)
2005年1月10日 kodo | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
張瑞図は、明末の四大家として名高かったのです。
悪人にされてしまうまでは。
張瑞図は、エリートです。
そういえば、明末の書をものするひとたちはみなエリートですね。
科挙に38歳で進士、皇帝がおこなう殿試では第三席で及第しています。
その後は順調に官吏の道をあゆみます。
57歳のときに礼部尚書という役職で内閣に入閣します。
「内閣は皇帝の頭にあたる」(by 桃花さん)といいます。
ようやっと行政の中枢にはいったわけです。
このころ書いたのが、あのすばらしい杜甫飲中八仙歌巻です。
そのころは宦官の魏忠賢が権威をふるっていました。
魏忠賢といえば、中国至上いちばんの悪人ですよね。
明ができたときには、宦官は廃止抑制されたのですが、
第3代の永楽帝のときに復活していたのです。
宦官が政治に口をだすようになると世が乱れます。
この魏忠賢に可愛がられたのが張瑞図の運の尽きでしょう。
張瑞図はひとがよいのでしょうか、つい色々なものをたのまれたまま書いてしまいます。
董其昌などは、
魏忠賢が政治をもっぱらにしているとみるや、早々と辞職しています。
それでもあとでちゃんと戻ってくるんだから董其昌はたいしたものです。
さて、翌年に毅宗(きそう)皇帝が即位すると、魏忠賢は失脚します。とうぜんですが、死罪です。
やはり張瑞図も弾劾されました。
毅宗は張瑞図を庇護して昇任させましたが、張瑞図は辞職を申し出ます。
故郷、福建に帰りますが、
魏忠賢の生詞を書いたことなどなどがバレてしまって、
けっきょくは官職を剥奪されて、平民におろされてしまうのです。
張瑞図は明にしか仕えませんでしたが、やっと中枢でちからをふるえるというときに、
たった一年で汚名を頂戴し、しまいには平民にされてしまうのです。
清には仕えていません。平民ですから、ずっと故郷で自適に暮らします。
明は漢民族による中華帝国ですが、清はツングース系ですからね。
倪元璐(げいげんろ)は明の最後の毅宗に殉死しますし、
黄道周は清軍に捕らえられても降伏しなかったので殺されます。
黄道周と倪元璐は同年の進士です。同期生なのです。
傅山も清朝にはつかえないで節をまっとうします。
王鐸は明清、二朝に仕えてしまうから、いろいろいわれてしまうのですね。
節操がないということで、王鐸はやはり中国では好かれませんでした。
それにしても、世が乱れると、思想にしろ、文芸にしろ、じつに活発になります。
明末といえば、董其昌。その20歳くらい年下が張瑞図です。
張瑞図は、53歳のころに董其昌と会ったことがあるようで、
そのときに、董其昌は張瑞図の小楷を誉めたそうです。
董其昌としては、張瑞図の行草を誉めるわけには行かないのでしょう。
董其昌もエリートです。35歳で二席で進士に受かっています。
科挙に受かるには小楷が書けないといけないわけです。公用文はみな楷書です。
張瑞図からまた20年くらいあとに
黄道周や王鐸、倪元璐(げいげんろ)がうまれています。
古典を背後に感じる王鐸などとちがって、張瑞図は、まったく古典を感じません。
こうなると独自の書法といってもよいでしょう。
科挙に受かるのですから古典をやらぬはずはないのですが、
なにを勉強したのかがわからない。
張瑞図の書法はとても現代的です。
重心はしっかり据えられていて、左右に重心がうねることはありません。
王鐸などは、前の重心を受けながら、じつにみごとに左右と流れていきますが、
張瑞図は左右に重心が振れることはありません。
筆遣いだけに惑わされてはなりません。
小楷をみても、行草をみても、行間をしっかりととり、一本のまっすぐな木をみせてくれます。
王鐸や傅山などとは受け応えという意味では異質なものです。
張瑞図は、故郷に帰ったのちは、禅宗にこころを寄せ、酒と陶淵明を愛し、自適な生活を送ったようです。
平民だからといって、落ちぶれたわけではありません。
汚点を残したために、その作品は、中国では軽視されつづけました。
張瑞図が水星のため、火厄のおまもりとして飾るひとはあったそうです。
ひどい扱いですね。
それでも張瑞図は福建だったため、日本にはずいぶんと入ってきて愛されたようです。
参考:
書道全集 21巻(二玄社)
中国書道史 下巻(宇野雪村著,木耳社)
中国法書ガイド52 張瑞図集(二玄社)
桃花さんの「魏忠賢」,「明は、何故滅亡したのか?」
歴史研究所
[ 張瑞図(ちょうずいと) ] の続きを読む
司馬景和妻墓誌銘(しばけいかさいぼしめい)
2005年1月 4日 kodo | 個別ページ | コメント(1) | トラックバック(0)
司馬景和妻孟氏墓誌銘ともいわれます。
北魏の延昌3年(514年)の刻。
司馬昞(景和)の妻の墓誌銘という意味です。
景和の妻は、孟氏といい、字(あざな)は敬訓といいました。
清の乾隆20年(1755年)に、河南孟県で出土しました。
同時に出土した、
夫の司馬昞[シバヘイ](景和[ケイカ])
夫の父の司馬紹[シバショウ](元興[ゲンコウ])
夫の族人の司馬昇[シバショウ](進宗[シンソウ])
の3墓誌とともに出土したため、
あわせて「四司馬墓誌[シシバボシ]」とよばれています。
私はずっと、
「シバケイ、ワサイボシメイ」
と読んでいましたが、
区切るところと、訓みがまちがっていました。
意味からいうと、
「シバ・ケイカ・サイ、ボシメイ」
と読むのが正しいようです。
これは北魏の墓誌銘ではありますが、
なぜか東晋の書法を考える一資料といわれています。
同時に出土した、夫の「司馬景和墓誌」は
この「司馬景和妻墓誌」と同筆とみられていますが、
この「司馬景和墓誌」について、
馮敏昌は、
元常(鐘繇)の幽深を得、二王の瀟灑(しょうしゃ)あり
と評しているそうです。
東晋の王族には北魏に亡命した人がいました。
その子孫とその妻の墓誌が、四司馬墓誌だということです。
なので、北魏の書=北方異民族の書、
というイメージとはややことなるということなのでしょう。
それにしても、「元常の幽深を得、二王の瀟灑あり」とは。
この墓誌銘を書いていても
私にはまだ、鐘繇や二王とはまだまだ重なってはきません。
それでもときどきはひっぱりだして書いています。
みているだけでもたのしいものです。
西川寧氏もこんなことを書いています。
六朝の墓誌は小品藝術として実に愛すべき存在である。最も有名なものだけをとっても、容易に二十幾つを挙げることが出来ようが、その何れもが、夫々特異な面貌を持っていて、応接する毎に色々の物語をささやき出す。中にも司馬景和妻孟敬訓墓誌銘は私の最も愛するものの一である。(西川寧著作集1)
ちなみに、隋代になると、
美人董氏墓誌銘(597年)や、蘇孝慈墓誌銘(603年)などの名品がでます。
墓誌銘というと、こちらを想像される方も多いのではないでしょうか。
北魏の墓誌銘とはずいぶんと雰囲気がことなり、とても端整な書です。
なのでこれらの墓誌銘は、
次代唐代の欧陽詢や虞世南の先駆けをなすといわれています。
私は欧虞よりは、これらの墓誌銘のほうがずっと好きです。
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